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ONCE UPON a TIME 外伝 ”キューバ革命 #3”片山通夫

ケネディ(右)とフルシチョフ

ついでと言ってはいけないだろうけど、もう一つキューバをはさんで世界中が震撼した事件があった。キューバ危機(、英: Cuban Missile Crisis、西: Crisis de los misiles en Cuba、露: Карибский кризис)は、1962年10月から11月にかけて、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚した事件である。

ソ連のフルシチョフはまさにアメリカののど元に短剣を突きつけたのだった。
事件は、1962年夏、ソ連とキューバは極秘裏に軍事協定を結び、キューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送ったことに始まる。アメリカの偵察機がキューバのに建設されたミサイル基地を発見し、事態は大きく報道されてアメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ第一書記の間で書簡の交換を繰り返し危機を抑え込んだ。この危機はそれぞれの国での指導者の立場が複雑に彼見合っていたと考えられる。ちなみに1964年10月に解任された時は東京オリンピックの最中だった。オリンピックのニュースとともにフルシチョフ解任のニュースは世界に衝撃を与えた。

ONCE UPON a TIME 外伝 ”キューバ革命 #2”片山通夫

ピッグス湾

一方アメリカは亡命キューバ人を利用してピッグス湾事件(スペイン語: Invasion de Bahia de Cochinos、英語: Bay of Pigs Invasion)を起こした。ケネディ大統領の1961年の事で前任のアイゼンハワー大統領時代に立案されていた侵攻案を承認した。在米亡命キューバ人部隊がCIAの全面的な支援でグアテマラで軍事訓練の後、キューバに侵攻してフィデル・カストロ革命政権の打倒を試みた事件。ソ連の支援を受けたキューバ革命軍が勝利し、この作戦を主導したアメリカは世界から非難された。この事件後カストロのキューバはますますソ連を頼るようになった。

今少しウイキペディアを参考にアメリカとの関係を見てみる。1959年5月にカストロは農地改革を断行し、6月にアメリカの資産を国有化したため、アイゼンハワー大統領は対抗策としてキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切った。これに反発したカストロ首相は、弟のラウル・カストロを冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソ連の首都モスクワに派遣し、1960年2月にアナスタス・ミコヤン第一副首相がハバナを訪問し、1億ドルの借款供与、砂糖買い付け、武器売り渡しを柱とする経済協力協定を結んだ。

ONCE UPON a TIME 外伝 ”キューバ革命 #1”片山通夫

フィデル・カストロ(右)とチェ・ゲバラ

キューバ革命(キューバかくめい、スペイン語: Revolucion cubana)は、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となってアメリカ合衆国の影響が強かったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒するに至った武装解放闘争を指す。最初は決して社会主義革命ではなかった。しかしおそらくカストロたちに倒されたバチスタ政権が、アメリカ資本に許していた利権などを奪われると慌てたアメリカ資本が、米政府を後押ししてカストロたちの政権を倒そうとしたのだと思う。そこへ冷戦時代のもう一つの雄ソ連がカストロたちの政府を支援した。それに慌てた米政府という冷戦構図がアメリカの喉元・マイアミ沖のカリブ海で繰り広げるという話。もちろん社会主義革命を嫌ってアメリカへ”亡命”したキューバ人も多かった。マイアミには今もそんなキューバ人の町が残っている。
砂糖しか採れないキューバ、暖かい地域で出来る砂糖。ソ連は国際価格より高い値段でキューバの砂糖を買い付けキューバの経済支援をした。(続く)

 

ONCE UPON a TIME 外伝 ”まずはBarへ。#3”片山通夫

フローズン・ダイキリ

ついでにと言っては失礼だがもう一つカクテルを紹介したい。キューバと、かの文豪、アーネスト・ヘミングウエイ(1899年7月21日 – 1961年7月2日)とは浅からぬ関係らしい。
ヘミングウェイは1953年にピューリッツァー賞、1954年にはノーベル文学賞を受賞したキューバの海を舞台にした小説「老人と海」を書いた。https://onl.tw/iMiaB9D

その彼がこよなく愛したといわれるカクテルにフローズン・ダイキリがある。
フローズンでないダイキリはアメリカンスタイルと呼ばれているようだ。
「老人と海」は日本でも多く翻訳されているのでご存じの方も多いだろう。
簡単に説明すると、キューバに住む一人の老漁師が84日間もの不漁の後、巨大なカジキを3日間にわたる死闘の末に捕獲するが、その後にサメに襲われ、獲物を食い尽くされてしまうという話である。食いつくされた残骸をみた港の男たちは老人が巨大なカジキを釣ったことを知る。

今もヘミングウエイがよく飲んでいたというバーは存在するし、彼の別荘は博物館になっている。

パパ・ダイキリ
フローズン・スタイルのカクテルの代表格であるフローズン・ダイキリは、ヘミングウェイが愛飲したことで知られる。ヘミングウェイが好んで呑んだとされるスタイルはパパ・ダイキリと名づけられた(ヘミングウェイは、モヒートも愛飲した)。

ONCE UPON a TIME 外伝 ”まずはBarへ。#2”片山通夫

なんとも皮肉な名前のカクテル。自由キューバ!コカコーラはアメリカの象徴、そしてキューバのラム酒。
ボクは片言の英語でバーテンダーの男とそのことを教わった。そしてこの飲み方は米西戦争時の米軍将校が飲んだの見方だったとか。ちなみにアメリカでコーラは1886年ごろから薬として販売されていたようだ。

クーバ・リブレ
ライムジュースは、ライム1/4個をグラスの上で搾り、そのままグラスの中に落し入れるか、またはグラスに飾って飲み手の好みで酸味を調整するか、どちらでもよい。ただし、この場合はマドラーを添える。1900年、キューバ独立戦争(米西戦争)時、スペインからのキューバ独立を支援するアメリカ陸軍通信部隊のラッセル大尉が、ハバナのバーで、このレシピでの飲み方を愛した。8月のある夜、その飲み方を真似た兵士たちが大いに盛り上がり、大尉に乾杯の音頭を迫った。大尉は乾杯の言葉として「Cuba Libre」(キューバの自由のために)と発し、それがカクテル名になったと伝えられている。「キューバ・リバー」の表記も多くみられるがあくまで本来は自由なので!。
参考

ONCE UPON a TIME 外伝 ”906がボクの部屋番号”片山通夫

Cubana de Aviacion

Cubana de Aviacionの機種は覚えていない。決して大きくもなければ豪華でもなかったように思う。ソ連製の機体だった。写真の一枚も撮っておくべきだった。驚いたことは機内で葉巻をもらったこと。cigarroというから紙巻タバコかと思ったら葉巻だった。そのころボクは煙草を吸っていた。他の乗客はその葉巻を吸いだしたのには驚いた。機内がもうもう・・・。

3時間ほどのフライトでのどかな空港に到着した。空港の名前は革命戦士の名前をとったホセ・マルティ空港。お断りしておくがホセ・マルティ空港をインターネットで探してもボクが降り立った空港ではないのだ。はっきり言ってえらく綺麗で豪華な空港になっている。当たり前だが。

ボクは機内で名前を呼ばれて最後に降りた。そして空港の一室に案内された。内心(これ、やばくない?)と思ったが、とんでもない。とても親切な待遇だった。そして車に案内されてハバナ市内へ。とんでもなく大きなホテルに着いた。
ホテルの名前はHabana Libre。後でわかったことだけど革命前はアメリカ資本のヒルトンホテルだったとか…。こんな豪華なホテルに泊ったのははじめての経験。古いけど。

今でも覚えていること。906はボクの部屋番号である。

ONCE UPON a TIME 外伝 ”Ciudad de Mexico”片山通夫

キューバ航空機

カタカナで書くと”シウダ デ メヒコ” と読む。そのまんまメキシコシティ。
は知らなかったが、それにメキシコ合衆国らしい。アメリカだけじゃなかった、合衆国は。
それはともかく、とりあえずホテルを探してバスの旅の垢を流した。さっぱりと!
そして日本を出るときに聞かされていた電話番号をダイアルした。日本航空メキシコ支店だった。電話の相手はボクが今何処にいるのかと聞いてきた。ホテルの名を言うとすぐにチェックアウトしてロビーで待つように言われた。
なんでもまもなくハバナ行きの便が出るらしい。ボクにとってはそんなの知らんがな…である。とにかく迎えに来てくれて空港まで送ってもらった。日本航空の飛行機に乗るわけでもないボクを親切に面倒を見てくれたわけだ。いずれにしても日本航空のお世話になった。

そして空港でまたひと悶着。搭乗手続きを済ませてまでは問題なかった。メキシコのイミングレーションも問題なかった。登場ゲートの手前で「US Emigration」と書かれた所があるので、それを見ながら「おかしいな。ここじゃないのか」とハバナ行きの出発ゲートを探していた。すると「ハバナ」と呼ぶ声がした。やはりそこだった。つまりキューバへ行く客は「アメリカの出入国管理」を再び通らなかったら行けないのだ。そこでパスポートとビザのチェック、コピー、ボクの写真をとられた。アメリカという国は何処までも厚かましい。こんな経験はずっと後でアルメニアでもあった。アメリカじゃなく、ロシアだったが。

結局少し遅れてボクは座席に座ることができた。 航空会社はCubana de Aviacion。

 

ONCE UPON a TIME 外伝 ”メキシコはメヒコというらしい”片山通夫

グレイハウントバス

アメリカとメキシコの国境のゲートは問題なく通過できた。きっと旅行者なんてはいて捨てるほどいるのだろう。アメリカ側で一緒になったアメリカ人が十数名一緒に越えたことも大きかったのかもしれない。とにかく彼らとはメキシコシティまでは同じバスで移動するというので、まったくスペイン語のできないボクは心強かった?!少し歩くとバスの停留所があった。そこに制服も来ていない男が

タコス
サボテン
サボテン

立っていて案内している。パスポートに書かれた名前とメキシコのビザ、それにバスチケットを見せると傍らに止まっているバスを指さす。言っちゃ悪いが、まったく田舎のおんぼろバス。それまでの快適なエアコン付きのバスと雲泥の差。ついでに言うとメキシコのバスはトイレもなかった。
時折止まるバスステーションでトイレ休憩と簡単な飲み物やスナックを手に入れる。時にはバナナ、ヤシのジュース。
当然メキシコの通貨だったが、いつ何処で両替したのかは記憶にない。
何しろはじめてのメキシコの旅だったので、見るものが珍しくそちらの方に気がイっていたのだと思う。鮮明に覚えているのは人の背丈ほどもあるサボテンとタコスという食べ物。
いずれにしても今更と言われるだろうがボクには珍しかった。こうしてボクらのバスの旅は何日か続いた。

ONCE UPON a TIME 外伝 ”サンフランシスコからメキシコシティへ”片山通夫

国境を通る車(イメージ)

グレイハウント(バス会社)のチケットをよく見ると、ロサンゼルス発になっている。バスセンターでそれを指摘されロサンゼルス行のバスに乗った。その後ロサンゼルスで乗り換えてようやくメキシコシティ行のバスに乗ることができた。
記憶はあやふやだが、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴとメキシコのバハカリフォルニア州ティフアナが最西端の国境の町だった。国境はちょうど日本でいうと高速道路の料金所のような佇まい。車ももちろん国境を越えることができるが、ボクはその手前のグレイハウントのバスディーポでおろされて徒歩で渡った。国境を歩いて渡ったのははじめてだった。島国に生まれ育ったボクは「国境を歩いて渡る」というのが新鮮だったことを鮮明に覚えている。

ここで断っておくが、ボクは英語を含む外国語は出来なかった。それでも横浜からサンフランシスコの2週間で英語は何とかだいぶましになったと思っている。そしてメキシコシティの1週間余り、同じバスに乗った人たちとも仲良くなり意志の疎通は図れた。もちろん賢明な読者の皆さんのレベルでは決してない。ということはスペイン語なんて・・・。

以前、まだ学生の頃、中国へ行った。中国は「書けば通じる」所だった。しかしアメリカは・・・。ましてメキシコは!!

ONCE UPON a TIME 外伝 ”キューバへ行くのか?”片山通夫

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先に書いたように、アメリカとキューバは犬猿の仲。「キューバへ行くのか?」税官吏は驚いたように2度そう叫んだ。そしてボクのバックの中を徹底的に調べだした。特に何もないのでそれ自身は簡単に終わった。子細に調べたのは荷物よりもパスポートとチケット。(何を疑ってるのだろう?)
しかし怪しいところはないので、それも無事に終わった。最後に今も鮮明に覚えているが、彼は自分の手で自分ののど元を切るしぐさをした。「カストロ!」と言いながら。きっとそんなところへ行けば殺されるぞと言いたかったのだろう。
それでもようやくサンフランシスコの港でホテルを予約し町に出た。バスは明日出発。
ボクは「ホノルルでアメリカに入国した」と思っていたが、アメリカ本土にはまだ上陸していなかったので「入国はしていない」のだそうだ。
その夜ボクは船室で仲良くなった日本人とホテルの部屋で語りあかした。彼はウルグアイのモンテビデオへ明日午後に飛ぶらしい。キューバも人を驚かせるようだが、モンテビデオにも驚いた。

ONCE UPON a TIME 外伝 ”いよいよアメリカ”片山通夫

Golden Gate Bridge

横浜を出て2週間ほど経った。サンフランシスコに着く。しかしその前に海流の影響か海はすごく荒れた。海流のせいだとかいうらしいが、英語の説明は正直よくわからなかった。汽船は1.5万トンの大きな船。太平洋を渡って来て初めての揺れだった。揺れが収まったところで美しい橋が目の前に現れた。Golden Gate Bridgeである。なぜ金門橋と呼ばれるのかは英語がわからなかったのでその時はわからなかったと正直に白状する。
いよいよ上陸だ。体育館のような広さのイミングレーションと税関が控えている。ボクは一応アメリカの通過ビザを持っていた。通過ビザなのでその先何処へ行くのかが明確にしなければならない。ボクはメキシコへ行くといった。グレイハウントという全米をカバーするバス会社のメキシコシティまでのバスチケットを見せた。

 

ONCE UPON a TIME 外伝 ”ホノルル上陸”片山通夫

クリーブランド大統領

4月の日本は寒くはないが決して暑くはない。横浜では桜はすでに散って東北辺りで満開だと思われた。前に書いたが乗っていた豪華な客船はクリーブランドというアメリカ大統領の名前がつけられていた。
それはともかく、船はハワイ・ホノルルに着岸した。24時間だったかの滞在である。下船時の持ち物は現金、水泳具一式、カメラだった。残念ながら国際免許はもっていなかった。まさかハワイでドライブできるとも思っていなかったので、持ち出さなかった。
まず他の乗客とワイキキへ行き泳いだ。海の色は濃く雲は白く空はあくまで青かった。

そうこうするうちに泳ぐのも飽きてきたのでレンタカーを借りようということになった。船で同室の仲間とで。
書くのが遅くなった。僕の部屋は所謂船倉で窓のない6人部屋だった。
レンタカーはすぐに借りられた。ただし前金。金額は忘れた。
その車であちこち走り、最後に日本から移民してきた大家族と知り合った。
総勢20人くらいいたと思う。なんでもバナナのプランテーションで働いているとの話氏だった。夕日に映える家族写真は圧巻だった。でもカラー写真でなくて今のようにデジタルでもなかったので後日郵送するということにした。

Once Upon a Time 外伝 ”ブルー・ライト・ヨコハマ”片山通夫

プレジデント・クリーブランド号(インターネットから)

1969年4月。ボクは横浜の大桟橋に向かった。最後にこの横浜港大桟橋のメモをつけておくが、開国日本の歴史そのものだと思う。
それはともかく、ボクは船で太平洋を渡りサンフランシスコまで行き、そこからアメリカ大陸を南下しメキシコへ行く予定。何しろ当時最も安いのは船だった。飛行機なんて高嶺の花。その船の名前はプレジデント・クリーブランド号。びっくりした。何しろ汽船で海を渡るなんてはじめてだし、ましてイギリス船籍の汽船・・・。船内すべて英語。おまけにテストケースだったのが、船の等級にかかわらずプールやデッキ、バーにレストランは本来あるはずの垣根が撤廃されていた。
ボクは当然昼は泳ぎ、夜はバーで過ごした。
このバーにはジュークボックスなるものがあり、レコード音楽が夜毎流れていた。そのバーでボクは「ブルー・ライト・ヨコハマ」というヒット曲を知った。この曲はご存じの通り1968年に出た石田あゆみという歌手の大ヒット曲。最も無骨なボクは音楽にはとんと知識がなかった。しかしこれは後日キューバででも困った。
MEMO
1859年 安政6年横浜港開港
1892年 明治25年イギリス波止場の延長線上に鉄桟橋架設工事着工
1894年 明治27年鉄桟橋(大さん橋)竣工約19m 長さ約457mメリケン波止場と呼ばれる
1895年 明治28年鉄桟橋に第一船「グレナグル」(イギリス船)入港
1923年 大正12年関東大震災で桟橋部陥没、上屋焼失
1945年 昭和20年進駐軍(米軍)が大さん橋を接収。サウスピアと呼称
1952年 昭和27年接収解除
1964年 昭和39年東京オリンピックに合わせて国際客船ターミナルが完成
2022年 令和4年 現・大さん橋ターミナル、リニューアルオープン20周年

Once Upon a Time 外伝 ”ちょっとキューバを取り巻く歴史”片山通夫

1969年9月2日に亡くなったベトナムのホーチミミンを悼むカストロ・ハバナ・革命広場で

フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となってアメリカ合衆国の影響が強かったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒し、武装解放闘争が成功したのは首都ハバナに入城した1959年1月1日。カストロたちが革命を起こしたのは、バチスタ政権がキューバを食い物にするアメリカ資本に対して何もできなかったことが主な原因。これによってキューバにあった、砂糖プランテーションを中心としたアメリカの権益は失われ、両国は険悪な仲になった。同時に首都ハバナのカジノなどの歓楽街からアメリカ人の姿は消えた。
その後、1962年10月から11月にかけて、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していた。これに対抗してアメリカはカリブ海でキューバの海上封鎖を実施した。結果、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事が起こった。これをキューバ危機と呼ぶ。

ボクがキューバに渡ったのは1969年4月。つまり革命後10年の年月が経っていたが、アメリカの経済封鎖は続いていた。

Once Upon a Time 外伝 ”遂にビザを手に入れた。 ”片山通夫

それから2年ほど経った。何しろ東京に通う為の旅費稼ぎにアルバイト三昧。これでキューバに行けなかったら・・・。不安な日を過ごしたこともあった。当時は高速バスも無かったので夜行列車。東京駅の地下にある東京温泉と言う銭湯でさっぱりして。
キューバの記念日はそこそこ多くあったので、大使館のパーティが催された。その度にとは行かなかったが結構通ったと思う。時には寝台急行”銀河”に乗ったこともあった。

いずれにしてもボクはビザを手に入れた。それも6ケ月の滞在ビザ。

Once Upon a Time 外伝”一端の友好協会会員になったボク ”片山通夫

キューバの国旗

今から考えると本当に無謀だったが、ボクは時折東京へ行った。知った人もいなく、ただテレビやラジオ、それに新聞や雑誌という情報が得られるモノを図書館などで読み漁って東京へ行った。経済的に苦しかった。だから長くは東京におられなかった。ある日カストロやゲバラなどの名前にぶち当たった。なんでもカリブ海に浮かぶ小さな島でマイアミの近くだと知った。カストロやゲバラが当時のバチスタ政権を倒して革命を起こしたのがたった10年ほど前だとか…。若い国には若いだけ無茶が通る可能性が高い。その点成熟した国は持っているシステムにがんじがらめになって融通は利かなさそう。
ボクは日本キューバ友好協会という親睦を目的とする団体の末席を汚して東京にあるキューバ大使館に事あるごとに出入りした。いっぱしの友好協会会員になったわけだ。

Once Upon a Time 外伝 ”退路を断つ ”片山通夫

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けど結局ボクはフーテンにもなれなかったと思う。某広告代理店を紹介してくれた人とはその後交流はなくなり、いよいよ退路を断ってしまったわけだ。そりゃあ心細かった。かっこなんて決して良くはない。寅さんの妹、さくらの心配もよくわかる気がする。しかし大抵の人がそうだと思うが”退路を断つ”と火事場のバカ力よろしく、無い頭をフル回転させて次の手を考える。自分でいうのもなんだが、行動も早かった。最近のCMじゃないけど”そうだ、外国へ行こう”と決めた。ところが外国と言っても何処へ行けばいいのか?
そんな頃、世の中は騒然としていた。1970年の少し前のことだ。まだ60年安保の余波で次の70年安保がくすぶりだしていた。
安保闘争に関してはこちら

Once Upon a Time 外伝 ”ボクは…フーテンだった。 ”片山通夫

フーテン族?
フーテン

モノクロームに目覚めたのにはわけがあった。忘れもしない1969年冬のことだった。ボクはそのころ進路に悩んでいた。結局踏ん切りがつかないでウロウロと、今でいうフリーターのようなことをしていた。 続きを読む Once Upon a Time 外伝 ”ボクは…フーテンだった。 ”片山通夫

Once Upon a Time 外伝 ”35mmという選択 ”片山通夫

こんなレンズだった。今はもう持っていない。

レオタックスを買ったのはいいけれど、レンズを選ぶのに一苦労。このタイプのカメラは長焦点レンズは使うのが難しい。それで通常は標準レンズとなる。ファインダーも50mmになっている。しかしワイドレンズの方が使いやすいし、それが目的で買った。つまりスナップには35mm、f2というレンズが最強だとボクは思っている(今もそうだ)。
それでそんなレンズを探し求めた。ライカのコピーなのでレンズマウントはライカLマウント。あのスクリューマウント。ものすごく数がある。ニッコール、キャノン、トプコ‐ル、Jupiter、ロッコール、Fujinon、ヘキサノン、セレナー・・・・

ワルツ製ファインダー 28ミリ~135mmまで6段階の可変。

ボクは使ったことのないレンズを選ぶときは価格の安いレンズを選ぶ。選ぶのに失敗しても諦めがつく。しかしあきらめるということはなかった。日本の製品は、レンズはボクにとっては上等だった。けど35ミリレンズだと別途外付のファインダーがいる。今のようにインターネットで探すというわけにはゆかない時代。結局ボクは中古カメラの販売店を回って。