連載コラム・日本の島できごと事典 その131《俊寛僧都》渡辺幸重

硫黄島にある俊寛僧都像

平清盛一族が政権を担っていた平安時代末期の1177(治承元)年に平氏打倒を謀議したとして首謀者が処罰されました。これを「鹿ヶ谷(ししがだに)事件」または「鹿ヶ谷の陰謀」と言います。首謀者の俊寛、藤原成経(なりつね)、平康頼は「薩摩国鬼界ヶ島」に流されました。

この事件は『平家物語』に出ており、歌舞伎などでも有名です。鬼界ヶ島に流された三人のうち成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の念をしたためて海に流しました。このうちの一本が安芸国・厳島(広島県)に流れ着き、それを見た清盛によって二人は恩赦を受け、1178(同2)年に都に帰ることができました。しかし、俊寛は一人だけ赦されず島にとり残されました。そのときの俊寛が絶望し、悲嘆に暮れる様子は歌舞伎の名場面の一つです。

では、その「薩摩国鬼界ヶ島」はどこにあるのでしょうか。もっとも有力とされているのは九州島南端・佐多岬の南西約40kmに浮かぶ硫黄島です。ここは薩摩硫黄島や鬼界ヶ島とも呼ばれ、俊寛の墓や俊寛堂、1995(平成7)年に建立された俊寛僧都(そうづ)像があります。お盆には俊寛の送り火が焚かれます。1996(同8)年には中村勘九郎(18世勘三郎)一門による日本初の野外歌舞伎『俊寛』が長浜浦で上演され、2011(同23)年にも再演されました。平家城公園の展望台には歌舞伎『俊寛』上演記念碑として18世中村勘三郎の銅像が建てられています。

俊寛の墓は、鹿児島県・奄美群島の喜界島と九州島と橋で結ばれている長崎県伊王島(いおうじま)にも存在します。喜界島には俊寛の座像、伊王島には俊寛の悲しみを詠った「北原白秋の歌碑」もあります。喜界島では「喜界島に文楽を繋ぐ会」の企画で2024(令和6)年7月5・6日に十一代豊竹若太夫らによる文楽「俊寛」の舞台公演が行われる予定です。

配流地の島として3島が挙げられますが最有力の硫黄島(別名鬼界ヶ島)とは喜界島が「きかいじま」、伊王島が「いおうじま」という呼び方でつながっているのがおもしろいところです。

俊寛の灰骨は京に運ばれたとか遺骨は高野山に納められたという記述もあります。また、俊寛の墓は俊寛が開山したといわれる佐賀市嘉瀬町の石宝山法勝寺の境内など全国にいくつもあるようです。法勝寺では俊寛は成経、康頼が赦免されて帰京する際ひそかに肥前嘉瀬津(嘉瀬町)に戻って没したと伝えられています。

『平家物語』延慶本では配流地は当初は別々の島とされ、成経は「油黄島」、康頼は「アコシキノ島」、俊寛は「白石ノ島」となっています。このうち白石ノ島は宮古島(沖縄県)、宝島(鹿児島県トカラ列島)、竹島(鹿児島県口三島)という3つの説があります。

鹿ケ谷事件は平清盛の策略だとも言われてきました。実際に鹿ケ谷で謀議が図られたのではなく、後白河法皇の近臣を一掃しようと清盛が作り上げたものだとすれば京都法勝寺の執行で僧都の地位にあり、後白河法皇の側近だった俊寛の“絶望と悲嘆”もいかばかりかとより深く感じられます。