びえんと《京アニ事件で思う死刑の是非 002》Lapiz編集長・井上脩身

遺族「死刑は望まない」

『死刑執行された飯塚事件』の表紙(ウィキベテアより)

78人もが犠牲になるという凶悪事件で、禁固最長21年(延長があるとしても)という判決は日本ではおそらくあり得ないだろう。仮に死刑が廃止されたとしても終身刑以外の刑は考えがたい。事件の被害者や遺族がどう思っているかに
ついてネットで検索すると、朝日新聞の記者が2022年6月、事件に遭って負傷した女性を取材していた。27歳(取材当時)のハルロブセンさんは
3発の弾を受けて右手を失った。一緒に集会に参加していた友人は銃殺されている。「(犯人に)憎しみはもちろんあった」という一方で、「厳罰という過激な処分で応えると、ノルウェー社会は彼の思うようになってしまう」という。その思いからハルロブセンさんは法廷でブレイビクと対峙したとき、傷口が見える服を着て銃撃の様子を証言した。「勝ったのはあなたじゃないということを見せようと思った」と話す。事件で次女を失ったレイネランドさんは「当初は憎しみしかなかった」といい、裁判所で被告から5メートルほどのところに座ったとき、手にしたスマホで襲いかかろうか、とも考えたと明かした。しかし、「いつの日か、彼に自分がやったことをきちんと理解してほしい」ので「死刑は望まない」とレイネランドさん。「娘が生きていたら、死刑を望まなかったでしょう」と語った。
朝日新聞の記者はノルウェーの刑務所は明るく自由にみえたと書いている。77人もの命を奪ったブレイビクには刑務所内で3つの個室が与えられているというのだ。わが国でこのような処遇をすれば、「殺人犯がなぜこんないい生活ができるのだ」と非難ごうごうであろう。ところが、ウトヤ島での生存者の一人は「受刑者を非人道的に扱えば結果はもっと悪くなる。この国が彼を人道的に扱っているのは喜ばしいこと」と語った。
こうした見方は、死刑廃止100年の歴史の積みかさねからくるものであろうか。死刑がなくなってはや3世代。罪を犯した人にも生きる権利がある、と多くの人が考えるようになったということなのであろうか。

死刑執行後に再審請求

冒頭、私は死刑は廃止されるべきだと考えていることを明かした。その理由は無実の人を死刑台に送ってしまえば、後で冤罪であることが判明しても取り返しがつかないからだ。実際、そう危惧される事件が起こっている。幼児が強姦されたうえ殺された飯塚事件である。
日弁連によると、1992年2月20日、福岡県飯塚市で小学1年生の女児2人が登校中に行方不明になり、翌日、隣接する甘木市で遺体で発見された。同22日、遺体発見現場から数キロ離れた所で被害者の遺留品が見つかった。この遺留品発見現場付近と被害者の失踪現場付近で自動車を目撃したという人が現れ、その証言からKさんが逮捕された。Kさんは一貫して犯行を否認、無実を訴えたが、福岡地裁は被害者の体に着いた犯人の血液のDNAが被害者と一致しているとして死刑判決を下した。福岡高裁が控訴を棄却、最高裁も2006年上告を棄却し死刑が確定した。問題はこのDNA一致が、やはり幼児が殺され死体遺棄された足利事件と同じMCT118鑑定による点だ。足利事件ではこの鑑定が正確でないとして新たに鑑定が行われた結果、Sさんは再審で無罪になった。弁
護側は飯塚事件の鑑定は目盛りとなるマーカーに重大な欠陥があるなど足利事件以上に不出来だと主張。科学捜査研究所は鑑定試料を全て消費してしまったといい、再鑑定は不可能になってしまった。2008年、足利事件でDNA再鑑定がなされる見通しとの報道がなされるなか、森英介法務大臣が死刑執行を命令、判決確定からわずか2年余りという異例の早さで死刑が執行された。Kさんの遺族は再審請求を行ったが2021年、最高裁は特別抗告を棄却した。遺族は2021年、新たな目撃証言に基づいて福岡地裁に第2次再審請求を行い、現在審理中である。この事件については2017年、『死刑執行された飯塚事件』(現代人文社)の題で一冊の本にまとめられた。このなかでフリーライターの小石勝朗さんは「100回以上鑑定できる量があったはずなのに、もはや再鑑定がかなわない。これほどいい加減な対応が死刑判決につながっているのかと思うと、やる
せない気持ちばかりが募る」と書いている。私も同じ思いである。「無実とわかる前に死刑にしてしまえ」と言わんばかりの冷酷な死刑執行というほかない。死刑という刑がなければ、Kさんは生きて無罪判決を得る可能性があった。死刑制度はその機会を奪ったのである。

回復感情の充足が課題

京アニ事件に話を戻そう。飯塚事件とちがって、防犯カメラの映像などさまざまな証拠から、被告の犯行であることは間違いなく、被告も自らの犯行であることを認めている。冤罪の可能性がないとなれば、死刑の是非を判断する要素は犠牲者数と被害者・遺族感情であろう。数だけの論なら京アニの被告は死刑を免れないことになる。実際、私も冒頭に述べたように死刑はやむを得ないか、と思ったのだ。しかし、本稿でみたように、遺族の思いは激情にかられて「死刑にしろ」というような単純なものではなかった。その思いをどう受け止めるべきであろうか。高橋則夫・早稲田大学学術院教授(刑法)が「犯罪被害者(遺族)と死刑制度」という論文を日弁連広報誌「自由と正義」2015年8月号で発表している。高橋教授は「犯罪被害者(遺族)感情は、応報感情と表裏の関係に立つ回復感情であろう」としたうえで、「国家刑罰については応報の側面だけが残存した」と指摘し、「回復の側面から被害者(遺族)問題を捉え直すことが必要」と主張。これを平たく「わが子を返してほしい」という回復感情をどうすれば充足できるのかを考える必要がある、と言い換えたうえで、「回復困難が充足されることで応報感情が削減されることになろう」と指摘する。

では回復感情はどのようにすれば被害者や遺族の心の内に生まれるのだろうか。高橋氏は「加害者は、犯罪被害者(遺族)への可能な限りの原状回復や財政給付、さらには犯罪被害者(遺族)への謝罪などを行うことが必要」という。しかし加害者によっては回復困難なケースが少なくない。高橋氏は「スウェーデンやノルウェーにおいては犯罪被害者(遺族)の支援などを目的とする犯罪被害者(ノルウェーは市民庁)が設置され、国による犯罪被害の補償、犯罪被害者基金の管理、犯罪被害者に関する情報の収集・伝達などが行われている」としたうえで、こうした取り組みを重ねることで死刑制度を廃止できると訴える。
京アニ事件でもそう言えるのだろうか。被害者参加制度基づいて遺族が被告に「(犯行の対象者に)家族や子どもがいると考えなかったのか」と尋ねられた被告は「そこまで考えなかった」と答えつつ、謝罪の言葉も漏らした。こうした被告の態度の変化が、遺族の回復感情に幾分かでもつながったのではないだろうか。死刑を望まない遺族がいたことは確かなのだ。遺族の感情、高橋教授の理論、そしてノルウェーの実情を総合して考えると、京アニ事件は死刑廃止に進む第一歩たり得ると言えるように思う。少なくとも「報復即死刑」という報復主義は考え直すべきであろう。答えを見いだしたとまでは言えないが、私は心の葛藤からいく分脱却できたようである。(完)