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Gallery《Hokkaodo Wakkanai》

稚内は北海道・・というか、日本最北端の町。幕末に松浦武四郎という探検家が、開拓使の役人として、1869(明治2)年7月17日に蝦夷地に代わる名称の提案を明治政府へ行った。その候補にあがったのが「北加伊道」「日高見道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案。最終的に「北加伊道」の「加伊」が「海」となって、同年8月15日に現在の「北海道」と命名された。武四郎は幕末に出版した「天塩日誌」の中で、天塩川流域を調査した際に出会ったアイヌの長老アエトモから、「カイという言葉には、この地で生まれたものという意味がある」と教えられたと記しており、「北加伊道」にその意味を込めたと言われている。(参考 音威子府観光情報サイト

おっと!・晋三氏の憂鬱 《「また余計なことを」と呟く》片山通夫

前川喜平・前文部科学事務次官の講演を文科省が調査していた問題で、自民党の議員の意見を質問に反映させていたことが20日、明らかになった。野党側は「異例の対応」と国会で追及している。一方、意見が反映された議員は自民党の会合を欠席し、姿を見せていない。(朝日新聞)180320 続きを読む おっと!・晋三氏の憂鬱 《「また余計なことを」と呟く》片山通夫

まだまだ・晋三氏の憂鬱 《深刻さの度合い》片山通夫


3/19  参議院予算委員会で太田理財局長は、共産党の小池晃書記局長 の質問に答えて「昭恵 夫人の名前が記載されていたのは首相夫人なので」と答えた。小池書記長は「重大な発言だ。国会議員以上に配慮しなければならない存在だから文書に登場した 」と語気を強めた。

その夜、自宅で。

晋三氏「太田も正直すぎる。大体純粋培養の点取り虫は機転が利かん。東大だの財務省だの、若い時から偏差値ばかりの輩には政治はわからん。この際、財務省を解体してしまおうか。大体、歳入と歳出が同じ役所にあること自体がおかしいのだ」
晋三氏にしてはすこぶるまともなことを考えていた。しかしホントはそれどころじゃないのだ。

《麻生財務相が「大体、昭恵さんの事件なのだ。なんで俺が詰め腹切らされるんだ」と凄んでる》と官房長官が先ほど言ってきた。

 晋三氏「日刊ゲンダイがボクの体調のこと書いてたけど、ホント、こっちも深刻だ。昭恵も問題だが、それよりも麻生が開き直りつつある。こっちが一番深刻だ。麻生が辞めたらボクはどうなるんだろう。世間では内閣が持たないというんだけど」

晋三氏は「麻生財務相の辞任だけは避けたい。財務省の一部の官僚だけが忖度して、こんな事件になったという解決が一番いいといったのは誰だったかな。それが麻生の辞任にまでゆくと、ボクちゃんは・・・。それにしても《忖度》って言われたってそんなもの、ボクにわかるわけないじゃん。ボクに人の心が読めるわけないし。。。」

晋三氏は深刻な事態に頭を抱えた。
こんな時にも妻はどこかへ出かけている。

Web版「サハリン逍遥」009

ユジノサハリンスクの駅前には様々なものがある。レーニン像もそうだ。レーニン像の前にはユジノサハリンスク市役所。そして郵便局があり、その前には写真のようなキオスク。

 

 

少し駅のほうへ歩いてゆくとD51の蒸気機関車が雪をかぶっていた。このデコイチはサハリン州鉄道D51-22 ユジノサハリンスクで保存されている戦後製D51形蒸気機関車だとか。それにしてもデコイチがサハリンで見られることに感動!

Column 続々・安倍晋三氏の憂鬱 《アンダーコントロールって嘘じゃん》片山通夫

妻「どうすんのよ、話が違うじゃない。」
その日の夜、晋三氏は妻に責められていた。

何しろ昼の参議院予算委員会で「妻に聞いたらそんなこと言ってない」と啖呵を切ったまではいいが、野党は勿論、完璧に抑えていたはずのマスコミにまで総スカンを食った。食ったといえばあれだけ高い寿司をおごってやったのにとますます不機嫌になった。
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Web版「サハリン逍遥」007

 

まだ晴れた日が来ない冬の一日。
ボクはバスに乗って以前からお世話になっている放送局へ向かった。
放送局の前には大きな看板があって、その看板はソ連時代からあるチョコレートの広告だった。ボクは日本の友人たちに買って帰るお土産をこの広告で思いついた。板チョコにする!

Web版「サハリン逍遥」006

なぜ今回ボクが真冬のサハリンへ行ったかというと、大きなわけがある。
以前書いた拙著「あるサハリン残留朝鮮人の記録」の主人公チョン・テシクさんの奥さんが怪我をしてテシクさんの生活が乱れて面会できなかったが、奥さんも全快してお二人とも元気だとお聞きした。それで慌ててユジノサハリンスクへ出かけることにした。
右の写真はテシクさん夫妻

 

 

「あるサハリン残留朝鮮人の記録」凱風社刊

→日本統治下の朝鮮半島から樺太の炭坑への出稼ぎを余儀なくされた主人公は、やっと家族と暮らせるようになった樺太から「急速転換」で九州へ移送される。掘進夫としてわき目もふらず働くなか日本は敗戦。予想外の事態に直面した主人公は、ともに九州の炭坑で働いていた長男を朝鮮半島の故郷に帰し、戦後の混乱のなかを仲間と樺太へ向かう。「逆密航」を経てやっと家族と再会した主人公は、戦後のサハリンで世を去る。

Web版「サハリン逍遥」005

ユジノサハリンスク駅近くの鉄路。
写真ではわかりにくいが、日本と同じ狭軌。
そう、日本が敷設した線路をそのまま利用している。
もちろん、メンテナンスは行っているはずだ。
もう70年以上前に日本は撤退したのだから。

Web版「サハリン逍遥」002

 ユジノサハリンスクは吹雪いて、飛行機が予定通り着かなかった。一日遅れたのだ。そして着いたその日も写真のような雪模様の夜になった。しかし以前と比べて街は実に明るくなった。最も州都ユジノサハリンスクだけだと思うが…。

 

Web版「サハリン逍遥」001

昨年「サハリン逍遥」という本を出版した。かるーい気持ちで読んでもらえるような内容にした。(右の写真)

そしてこの一月の終わりにまたサハリンへ出かけた。その時撮影した写真の一部をこれから順次紹介したい。