現代時評《黄河決壊事件とウクライナ戦争》井上脩身

黄河決壊事件

ウクライナのダムが6月6日、何者かによって決壊され、東京23区の面積に匹敵する約6000平方メートルが水没した。ロシア、ウクライナともに、相手側の仕業として非難を応酬。ウクライナ戦争は新たな局面をむかえた。この85年前の同じころ、日中戦争のさなかに黄河が決壊して氾濫、数百万人が犠牲になった。「黄河決壊事件」(写真)と呼ばれるこの軍事事件から導かれるのは「首謀者は住民の信頼を失って最終的に敗れる」である。ダム決壊の実行は軍事的に致命的な愚策にほかならないのである。

黄河決壊事件については台湾人ジャーナリスト、黄文雄氏が著書『日中戦争知られざる真実』(光文社)の中に「黄河決壊・焦土戦術の真犯人」という項目を立てている。黄氏の報告を中心に他の資料も合わせると、同事件の概要は以下の通りである。
1938年6月7日、河南省中牟付近の堤防が爆破された。11日、爆破地点から水が流れ出し、河南、安徽、江蘇3州の平原を襲った。11の都市と4000の村が水没し、水死者100万人、被害者600万人といわれる犠牲者がでた。水没した耕地は1700万アールに達し、被害額は当時の中国元で9億5300万元にのぼった。決壊した堤防の修復工事が完了したのは9年後の1947年である。
事件前年の1937年、日中戦争が始まり、日本軍は中国北部全域を制覇、事件前には河南省の中心地、開封市を占拠。鄭州市が攻略されるのは時間の問題となった。鄭州は交通の要衝で、武漢、西安と鉄道でつながっており、ここを破られると、武漢、西安が危機に瀕する事態となる。こうした状況の中、黄河が爆破されたのであった。
中国国民党は6月11日、「事件は日本軍が引き起こした」と発表。これを受けて中国メディアは「日本軍の暴挙」と伝えた。日本側は「決壊は中国軍に強制された農民によるもの」との声明を出した。
日中のいずれの主張が正しいのか。黄氏は「私の調べたところ、爆破を命じたのはじつは蒋介石である。彼は日本軍が南下して武漢に進撃してくることを恐れ、武力でそれを阻止できない代わりに水攻め作戦を指令した」と結論づけた。蒋介石が直接指令したかについては異論もあるが、中国軍司令官が「黄河の堤防決壊によって洪水を起こすことによって日本軍の進撃を阻止する」という作戦案をたてたのは確かであろう。この作戦を蒋介石が命令したとみる黄氏は「この真相について国民党政府が自白したのは1976年だった」と書いている。
決壊による被害は国民党の予想をはるかに超えるものだった。農業生産が打撃を受け、穀物不足は1940年10月まで続いた。1942年から伝染病が発生、加えてイナゴ被害も起き、死者は300万人にのぼり、土地を捨てた人も300万人におよんだ。
決壊作戦によって日本軍の武漢進撃は一時停止されたが、進路を変更して10月26日、武漢を占拠した。膨大な被害を出してまで行った決壊作戦は一時しのぎに過ぎなかったのだ。
ウクライナの決壊事件は南部ヘルソン州のカホフカ水力発電所のダムで起きた。同国を南北に貫くドニエプル川の下流にあたり、ロシア軍の占拠地域内である。ダムは高さ30メートル、幅3・2キロ、貯水量18平方キロメートル。6月10日現在、水没した同州の約600平方キロのうち、68%が同川東岸のロシア軍占領地域、32%はウクライナ側が奪還した地域。ウクライナ側支配地域では7日までに住宅1852戸が、ロシア側支配地域では2700戸が浸水した。同川西岸では1億平方メートを超える農場が浸水、東岸ではさらに数倍の被害が見込まれるといい、かんがいシステムの停止により15億ドル相当の穀物と油糧種子の生産に影響する可能性があるという。(6月8日、毎日新聞)
決壊地点は、ロシアが2014年に一方的に併合したクリミア半島の北約80キロのところ。クリミア半島奪還を目指すウクライナ軍は半島の孤立化を図るために、ロシア占領地を南進する作戦を立てていたと伝えられている。ダム決壊により、この反転攻勢作戦の遂行は困難になり、ウクライナ側は作戦変更を余儀なくされた。
黄河決壊事件では、日本軍の南進を阻止するために蒋介石の中国国民党軍が実行したことはすでに見た通りである。この先例からすれば、ウクライナ軍の南進阻止で利を得るのはロシア側にほかならず、確証はないものの、ロシア側の仕業とみるのが自然だろう。
黄河決壊によって、国民党軍が守るべき中国の住民が犠牲をこうむるはめになった。住民の支持を失ったことが、後に蒋介石の国民党軍が毛沢東の共産党軍に敗れる遠因の一つとなったと私は推測している。ロシア軍が実行したのであれば、占領した地域の住民の支持を失うのはまぎれもに。もしそうであるならば、プーチン大統領の蒋介石の轍を踏むことになるであろう。
あるいはこれは甘い見方かもしれない。黄河決壊事件の真実が自白されたのは事件から38年後と黄文雄氏。ダム決壊事件の首謀者は、徹底して真実を隠すことを蒋介石からの教訓と考えるかもしれないからである。