SDGs現代時評【行く春を近江の人と惜しみける】片山通夫

イメージ・京都白川

先週末(4月6日)辺りから桜が満開のところが多い。筆者の友人たちは異口同音に「やはり春は桜」と花をそれぞれの方法で楽しむ。例えば公園で、吉野など山間の、もしくは城で、または電車に乗って桜のトンネルを楽しむという。ある人は夜桜でないととほろ酔いきげんで花か酒かわからない御仁もいた。

ことほどさように日本人は桜に限らず自然を愛する。また当たり前のことながら、自然を愛する以上、その自然を大切にする。外国のことはわからないが、桜守(さくらもり)と言って年間を通して、公園や街路などの桜の木の世話をする人がいる。無論本業は植木屋さんが多いようだ。また「北の桜守」という映画もあったことを書き添えておきたい。

筆者はある写真倶楽部とお付き合いがあるが、作品にはこの季節になると、梅に始まり桜そして藤など花をめでる作品が多く見られる。同じ桜でもそれぞれの感性が作品に如実に表れるのが興味深い。

さて本文のタイトルなった句は松尾芭蕉の作品である。春が近くになる頃、筆者はなぜかこの句を思い出す。そしてこのような「風景」に出くわさないかと琵琶湖畔や田んぼの続く守山や野洲、遠くは近江舞子の辺りを歩く。最近はJRの便も便利になって、通勤通学圏内に京、大阪が入ってきたようで、鉄筋コンクリートの建物など住宅開発が盛んだ。そうなるとなんとなく「行く春」を惜しむという風情に親しむことができないが、これは勝手と言うものだと思う。

けれどやはりこの句のような風情で季節に親しみたいものだ。