Lapiz2024春号Vol.49《巻頭言》Lapiz編集長・井上脩身

大阪の書店で「サッコ・ヴァンゼッティ」の文字が目に留まりました。書棚から本をとりだすと、『「わたしの死を泣かないでください」サッコ・ヴァンゼッティ冤罪事件』という題がついていて、イタリア近現代史が専門の藤澤房俊
・東京経済大名誉教授が太陽出版から刊行していました。1985年7月、徳島ラジオ商事件の再審裁判で、すでに亡くなっていた冨士茂子さんに無罪が言い渡されたとき、新聞社にいた私は解説記事のなかで、死後に無実の罪が晴れた例としてサッコ・ヴァンゼッティ事件を引用していたのです。39年前、徳島地裁でのどよめきがよみがえり、さっそく同書を買って読みふけりました。

サッコ・ヴァンゼッティ事件の概要は以下のとおりです。
1920年4月、アメリカ・マサチューセッツ州の製靴工場を5人組の男が襲撃、会計部長とその護衛の2人が射殺されたうえ、16,000ドルが奪われるという強盗殺人事件が起きました。この事件の容疑者としてイタリア移民のニコラ・サッコとバルロメオ・ヴァンゼッティが逮捕されました。サッコはこの工場で働いたこともある社会主義者、ヴァンゼッティは魚屋で無政府主義者。当時、アメリカでは共産党狩りが行われていて、二人が犯行に加わっていた明白な証拠もないまま裁判が始められました。1921年7月、裁判所は二人に死刑判決を下しました。
判決から3カ月後、「審理が公正でない」としてボストンをはじめニューヨークなどで抗議の暴動がわきあがります。処刑が近づくと、フランスのリール市のアメリカ領事館を共産党員らが取り囲みデモを行うなど、抗議活動はアメリカ国外にまで広がりました。弁護側は裁判のやり直しの申し立てを行いましたが却下され、1927年4月9日、サッコとヴァンゼッティは刑務所で処刑されました。
処刑から50年後の1977年7月、マサチューセツ州知事のマイケル・デュカキスは、偏見と敵意に基づく冤罪であるとして、二人が無実であると公表、処刑日にあたる8月23日を「サッコとヴァンゼッティの日」と宣言しました。
『「わたしの死を泣かないでください」サッコ・ヴァンゼッティ冤罪事件』の著者、藤澤氏は冒頭に述べたように歴史学者です。法律家、ジャーナリスト、ノンフィクションライターでない人が冤罪問題に取り組むのは珍しいのですが、藤澤氏は裁判記録を丁寧に調べ、サッコやヴァンゼッティが書いた手紙なども精査して本にまとめあげました。
藤澤氏によると、担当した検事は差別観に満ち満ちていて、サッコが徴兵を逃れるためにメキシコに逃避したことをとらえて「あなたは国を愛していたか」などと、事件と関係のないことを執拗に責め、愛国心のないアナーキストとのイメージを陪審員に印象付けようとしました。イタリア移民たちが「事件当日、駅でサッコに会った」などと証言、「その日は旅券の申請にイタリア領事館に行った」というサッコの供述を領事館員が肯定したにもかかわらず、「イタリアの同胞をかばうもの」として、これらのアリバイ証言を認めなかったのです。
藤澤氏は「第一次世界大戦後の『赤への恐怖』と、イタリア人移民に対する偏見と蔑視があいまった社会的なヒステリー状況のなか、なかでもイタリア人移民に不寛容で保守的なボストンにおいて、イタリア人とアナーキストに憎し
みを抱く判事と検事が、サッコとヴァンゼッティに対し、電気椅子による死刑判決を下した」と結論づけています。
1951年、ボストンの新聞が事件の真犯人の一人がブッツィーなる人物と報道。ブッツィーは「サッコとヴァンゼッティはぬれぎぬ」と述べ、二人の冤罪が確定的となりました。1971年には事件を忠実に描いた映画『死刑台のメロディー』が公開され、世界中から反響がわきあがりました。こうした経過を経て、前述したようにマサチューセツ州知事の声明により晴れて二人は無実となったのです。
徳島ラジオ商事件は1953年、徳島市のラジオ店主が殺害され、内縁の妻、冨士茂子さんが犯人として懲役13年の判決を受けた事件です。茂子さんは服役しましたが、住み込み店員が「二人が争うのを見た」との警察官に対する
証言はうその供述だったと告白、茂子さんが再審を請求しました。茂子さんは1979年、69歳で亡くなり、きょうだいが再審請求を継承しました。無罪判決によって茂子さんの名誉は回復しましたが、その判決を自分の耳で聞
くことはできませんでした。茂子さんは死刑ではありません。もし死刑で
あれば、店員が偽証告白する前に執行されてしまったかもしれません。サッコ・ヴァンゼッテ事件があったマサチューセッツ州は1984年、死刑を廃止しました。現在死刑があるのは日本を含め約60の国と地域。世界的には少数派です。その日本で1月25日、京都アニメーション放火殺人事件で殺人などの罪に問われた被告に死刑が言い渡されました。死刑の存在を認めるのか、廃止されるべきなのか。本号では「びえんと」のなかで考えました。