「樺太夢幻」017

樺太の開発は主に製紙工場と炭鉱だった。製紙工場は豊富なパルプを生産し、島内の随所に港と鉄道を持ち、生産した紙を本土に運んでいた。一方石炭も「黒いダイヤ」と呼ばれていたことでもわかる通り我が国の重要な産業であった。写真は川上炭鉱(シネゴルスク)。

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語007(了)

ここ塩津には「塩津神社」がある。
主祭神 塩土老翁神
配祀神 彦火々出見尊 豊玉姫尊とあった。
塩土老翁神(シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。この神は土地の人々に漁業や製塩法を押してたといわれている。写真は塩津神社
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琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語006

琵琶湖の最北端の町の名前は「塩津」である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると以下の通りである。

塩津(読み)しおつ
滋賀県北部,長浜市西部の旧村域。琵琶湖北岸に位置する。1955年永原村と合体して西浅井村となり,1971年町制。2010年長浜市に編入。かつては湖港で,塩津街道(現国道8号線)の要地。平安時代から江戸時代まで琵琶湖水運の要津として栄え,北国の貢米や物資を船積みした。その後は農村となったが,往時の船溜りや問屋などが残る。

「樺太夢幻」015

 この白い風景は雪景色である。あまりにも暑いので気が狂ったわけではないが、少しでも涼をと思って・・・。この鉄路は豊原から北へ延びる樺太東線の鉄路。宮沢賢治も、岡田嘉子も豊原から北へ向かった。宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の構想を練り、岡田嘉子は恋人と手を携えて国境を越えてソ連に亡命した。

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語005

かつて琵琶湖の水運を担ってきたのが「丸子舟」である。丸船ともいう。おそらく中世末期ないし近世初頭のころから近年に至るまで,琵琶湖で用いられてきた特異な小型~中型船(50石~200石程度)を指す。若狭湾(敦賀,小浜)から峠を越えて琵琶湖経由で京・大坂に至るルートは,日本海岸各地と畿内を結ぶ物資流通の大動脈であったが,この湖上を南北に縦断する航路の主役がこの船であった。その外観上最大の特徴は,船首部の形状にある。つまり,おけや樽をつくるように,下方をややすぼめた短冊形の板を,縫釘(ぬいくぎ)で円筒形にはぎ合わせ,ちょうど縦半割りにしたおけのような形の船首をつくる(船名の由来)。
写真は「北淡海・丸子船の館」で。

戦争が奪った若き命

 15日は我が国が無謀な戦争に負けた記念の日である。世に「終戦記念日」と言い換えが行われている日でもある。筆者(片山)は長年、つまり1999年からサハリンで取材を続けて今日に至る。そんな中で「9人の乙女」の話を何度も聞いた。稚内には慰霊のための「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」もたてられている。写真は激しい戦闘が行われた真岡郊外の日本軍の塹壕 続きを読む 戦争が奪った若き命

「樺太夢幻」014

豊原(ユジノサハリンスク)と真岡(ホルムスク)との間に熊笹峠がある。豊原・真岡間を結ぶ交通の要衝だった。1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して樺太に侵攻したソ連軍は1945年8月20日に真岡に上陸、真岡占領後は豊原市(現在のユジノサハリンスク)を目指して進軍し、それに抵抗する日本軍との間に8月20日から23日にかけて熊笹峠や宝台ループ線を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた。写真は熊笹峠に残る日本軍の塹壕。

「樺太夢幻」012

 

冬の話。
樺太の冬は厳しい。氷の世界だ。氷の世界では海にも畑にも行くことはできない。人々は集って長い冬をやり過ごす。踊り、歌いそして笑って。

 

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語003

筆者がだいぶ以前から不思議感じていたことはこの湖北には「塩津」とか「海津大崎」などという「海にちなんだ地名」があることだった「津」という文字の意味するところは「湊・港」だという。

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語002

 

琵琶湖は 大きく分けて南湖と北湖に分かれる。南湖は県都大津が控えていて、人口も多いので北湖ほど水は澄んでいない。この写真のように北湖は透き通った水が続く。
写真は安曇川付近(滋賀県高島市)

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語001

《琵琶湖から塩取れたよ! 「近江塩」に園児沸く 》:虚構新聞2015・5・8付

こんな見出しの記事が目に留まった。なんでも近江塩と言って1袋(500グラム)4800円(税込)。かなりの高値だ。ちなみに、昔ながらの製塩法で海水から塩を作っている能登半島の「こだわりの非直火式低温製法 奥能登海水塩」 200g756円だ。(写真は虚構新聞2015・5・8付から)
記事を少し引用してみる。

虚構新聞2015・5・8付⇒ http://kyoko-np.net/2015050801.html
滋賀県での塩作りは7世紀、大津に都を移した天智天皇の時代までさかのぼる。淡水湖である琵琶湖に含まれるごくわずかな塩分を抽出して取り出す「近江塩」は貴重な調味料として古くから皇族・貴族に珍重されてきた。また日本だけでなく歴代の中国皇帝も好んだと言われており、コロンブスらが新航路を開拓した目的も、東南アジアの香辛料ではなく、近江塩を手に入れるためではないかという説もある。

ところで当該記事はともかく、同じ琵琶湖の、いわゆる湖北では古来塩が作られていたという名残や言い伝えがある。(次回に続く)

「樺太夢幻」009

樺太開拓の一環として、パルプ工場が石炭産業とともに多く造られた。
そして、現在もその工場跡が随所にみられる。写真は真岡(ホルムスク)の王子製紙真岡工場

王子製紙の歴史:王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社は、従来から競合しつつもしばしばカルテルを結んで協調行動をとっていた。1920年代末になると市況の悪化で、特に富士製紙・樺太工業の業績が悪化する。1929年(昭和4年)に王子製紙は富士製紙の株式を買収して筆頭株主となり、富士製紙の業績建て直しを支援するようになる。また、1930年頃から樺太工業側から王子製紙へ合同を打診していた。市況と各社の状況から、これ以上の消耗を回避し、なおかつ従来以上の市況統制として3社の合同が構想され、巨大トラストである「大王子製紙」発足へと至ったのである。(ウキペディア)