連載コラム・日本の島できごと事典 その125《臥蛇の入道先生》渡辺幸重

「臥蛇島の入道先生」比地岡栄雄(『臥蛇島離島50年記念誌』より)

学校は島社会にとって重要な施設で、先生も地域社会に溶け込んでいます。私も子どもの頃、親に言われて野菜や魚を教員住宅に届けたりしました。夜は先生の家に勉強や珠算を教えてもらいに通ったりもしたものです。島の子供たちだけでなく島の生活や将来のために貢献した先生方もたくさんいます。その代表が「臥蛇の入道先生」こと比地岡栄雄(ひじおかえいお)(1907ー1998)です。

比地岡は1953(昭和28)年から1966(同41)年の定年までの13年間、トカラ列島・臥蛇島にある中之島小中学校臥蛇島分校で教鞭を執りました。1965年4月にNHKテレビ番組「ある人生 『臥蛇の入道先生』」で紹介され、その後も再放送があったので全国的に知られるようになりました。私も子どもの頃に臥蛇島に海坊主だか蛸入道だかに似た風貌の先生がいるという噂を聞いた記憶があります。

比地岡は教職の傍ら簡易水道や自家発電の整備、農作物の品種改良などで島の住民に対して指導や啓発を行い、島社会の発展に大きく貢献しました。臥蛇島には村議会議員がいなかったのでときには鹿児島市に置かれた十島村役場に島の要望を伝える陳情に行くこともあったそうです。1959(同34)年には南日本新聞社の文化功労章を受章しています。

私が“入道先生”に強い印象を抱いたのは、子どもの頃の体験が影響しているように思います。私の島では酔って「こんなところに来たくて来たんじゃない」と叫ぶ先生がいました。へき地の学校に3年以上赴任しないと教頭になれないと聞いたことがあるので無理していたのかもしれません。私は子どもながらも「気の毒に」と感じながら「へき地手当で金を貯めて帰るくせに」と子どもっぽくない考えを抱いたものです。比地岡は奄美大島出身なので“島の思い”をよくわかっていたのかもしれません。

臥蛇島分校は1885(明治18)年に住民自身が設立した私立臥蛇島小学校を前身とし、1970(昭和45)年7月28日の住民全員の離島(島外移住)によって閉校し、臥蛇島は無人島になりました。臥蛇島分校は小学部と中学部にそれぞれ1クラスが設置された複式単級方式で、教職員も各1名(1969年までは小学部に助教諭1人追加配置)という状況でした。全ての教科を教える比地岡の教育活動は苦労が多かっただろうと思いますが、島のために生き生きと動き回る“入道先生”の姿も浮かんできます。