現代時評《東アジア反日武装戦線闘志の孤独な死》井上脩身

東アジア反日武装戦線″さそり″のメンバーとして指名手配されていた桐島聡さんと見られる男性について、警視庁は2月初め、DNA鑑定から本人の可能性が高いと判断した。1974年から75年にかけて海外進出している一流企業を標的に行われた一連の爆弾テロ事件。「桐島聡さん」は命をかけた革命闘争の意義を誰に語ることなく、ひたすら逃亡生活をつづけ、1月29日に死亡した。「桐島さん」の50年は何だったのだろう。私は彼に深い哀憐の情を覚える。
男性が桐島さんと断定されたわけでないので「桐島さん」とカッコづきで書くことをお断りしておく。

1月下旬、神奈川県の入院先の病院で男性が「桐島」本人であると明らかにしたとの新聞記事の文中に「東アジア反日武装戦線」の名があった。私は以前、同戦線をテーマにした本を読んだことを思い出した。本は自宅の書棚の冤罪関係の書籍コーナーにあった。松下竜一さん著『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線″狼″部隊』(河出書房新社)である。奥付には1987年1月初版発行とある。松下さんには甲山事件についての著書があることからその名を知っていて、私は発売とともに買って読んだのだった。
37年ぶりに読み返した。東アジア反日武装戦線のリーダーであったD氏との往復書簡や面会時の会話、裁判記録などを中心に、同戦線の思想、起こした事件の真相、そして時代背景に迫る力作である。
同書によると、D氏らは「東アジア諸国に経済侵略を続ける日本を、侵略される側の人民と連帯してこの国の内側から打倒していこう」と決意し、1972年末、グループ名を東アジア反日武装戦線″狼″に決定。「法と市民社会からはみ出す闘い=非合法の闘い、を武装闘争として実体化する」ために兵士読本を作成。『腹腹時計』と銘うって、電気雷管や時限装置の作り方を図解入りで説明。印刷部数は200部。公然たる爆弾闘争宣言となった。
その宣言通り1974年8月30日、東京・日比谷の三菱重工本社ビルに時限爆弾をしかけた。この爆発によって8人が死亡、300人近くが重軽傷を負った。9月23日、「″狼″通信第1号」のなかで「三菱爆破=ダイヤモンド作戦を決行した」と犯行声明を行った。

三菱重工爆破事件に強く触発されたのが「桐島さん」らのグループだ。東アジア反日武装戦線″さそり″と名のり、標的の第一弾に鹿島建設を選んだ。同年12月23日、東京・江東区の鹿島建設の工場敷地内で時限爆弾をしかけた。プレハブ材料のパネルなどに被害を与えただけに終わったが、「鹿島爆発=花岡作戦を決行したのは東アジア反日武装戦線に参画する抗日パルチザン義勇軍″さそり″」との声明文を発した。
やはり三菱重工爆破に触発された″大地の牙″も加わり、3グループ連携で1975年2月28日、間組のコンピューター室を爆破するなどの爆弾事件を起こし、警視庁は「非常事態」を宣言。同年5月、D氏ら″狼″グループのメンバーを一斉に逮捕。″さそり″のU氏やK氏も逮捕されたが、「桐島さん」は逮捕を免れた。
裁判でD氏は死刑が確定(2017年5月、東京拘置所で死去)、K氏は無期懲役、U氏は懲役18年(2003年出所)の実刑を受けた。D氏が逮捕されていたら、K氏と同程度の刑を受けたとおもわれる。

報道によると「桐島さん」は「内田洋」と名のり、10数年前から藤沢市の工務店に住み込みで働くなど、1人暮らしをつづけてきた。逮捕されて被告となったD氏らには支援団体からの差し入れもあり、家族会もつくられた。もちろん弁護団がついており、被告人同士、さまざまな方法で連帯を確認しあっていた。一方の「桐島さん」はミュージックバーに月に1回程度顔を出してはいたが、飲み仲間もなく1人でビールを飲みほしていた。話し相手がいなかったのであろう。
末期がんになっていた「桐島さん」は「最期は桐島で迎えたい」と言っていたという。D氏らが法廷闘争や獄中闘争まで行ったのに対し、逃げおおせた「桐島さん」は闘うすべもなく、自分自身を消し、別人として陰で生きていくしかなかった。ある意味で、捕まって刑を受けた人以上に過酷な人生だったと言えるだろう。
「桐島さん」は「指名手配されている桐島だ」と告白しようと思ったことはなかったのだろうか。おそらく葛藤しつづけた揚げ句、死を目前にして「桐島」を名のったのだ。「桐島さん」としては「ようやく刑を終えた」という思いだったのかもしれない。「桐島」として息を引き取ったのは古希を迎えて20日後であった。