とりとめのない話《標準レンズをもう一度》中川眞須良

今 カメラ、写真の世界で「標準レンズ」と言う言葉は死語になりつつある。

なぜなら「標準」の語の解釈が大きく変化したように思われるからだ。以前は「人間の眼」という明確な基準があった。レンズの焦点距離に換算すれば56~58ミリで、単焦点であることは議論の余地がない。特に1960年代以降 この人間の視角、視点に近い標準レンズ 各メーカー競って大量に造られてきた歴史がある。距離型式カメラなら40もしくは50ミリ、一眼レフなら50もしくは58ミリの範囲にほぼすべてが収まる。しかしこのレンズ(私は「単コロ」と呼んでいる) 一体何処へ消えたのだろう。 街なかで見かけることは皆無だ。

昨今カメラを手にする年齢50代以下のファンに標準レンズの話をむけると、多くから「標準的、日常的に使用する 頻度の高いレンズですか?」との内容の質問が返ってくる。ズームレンズが主流である今 単焦点の話を切り出すには少しハードルが高い。これが時代だ?と片づけてしまうにも少し抵抗がある。

さて日本はもちろん 世界のカメラレンズの歴史そのものが単焦点標準レンズである。短期長期を含め私が使用したいくつかのレンズの思い出を並べると、、、

1、ミノルタオートコード(6×6)ロッコール75ミリ f3,5
フアインダー暗く 殆んど傑作なし

1、キャノン セレナー50ミリ f2,8(ライカLマウント 単品)
名玉と言われていたが私にとってはごく普通

1、ヤシカ 35  (雰囲気は少しコンタックス)
ヤシノン 45ミリ  f2,8  セレナー50ミリより少しクリアか?

1、ローライフレックス(6?6) クセナー75ミリ f3,5
緊張してシャツターを切ったが「あのトーンが味なのか?」

1、ライカⅢC  エルマー50ミリ f3,5
沈胴式は室内で三脚なしでは難しい

1、コンタックスⅡ  カールツァイス50ミリ f1,8
ピント合わせが楽 ロバートキャパが使ったってほんと?

これら単焦点標準レンズに関し多くの先達から幾度となく教わった格言のようなものがある。それは「標準レンズは各メーカーの顔である。それ故多くの資金、すべての技術、最高のプライドをかけ開発、生産されてきた。我々ユーザーはそれらの最高の味(表現力の微妙な差)を楽しまずしてなんとする。」と。

言うは易し・・・・である。

さて ここでいう「レンズの味」とは何なのだろう。
私はある時期この味の違いに出会ってみようと数種のレンズを一本のフィルム内で順次に使用しその比較を試みたことがある。

使用したのは

距離計式用  ロッコール40ミリ f2   ニッコール50ミリ f2
一眼レフ用  ロッコール55ミリ f1,8  ニッコール50ミリ f1,4

いずれもレンズ交換可能の4種類である。

結論は
一本のフィルム(35ミリサイズ)で撮影、現像、プリントの結果 「違いは 判らない 解らない 変わらない! 。数コマの撮影だけではレンズの性能、ましてやその味までわかる筈がない、無駄な行為に終わった。
しかし それ故 レンズの味は「一点の作品に至るまでの多くの要因(正負の両要因)から創造された媒体を手段として 撮影者の感性によってのみ表現できる世界なのかもしれない」と言う別の結論も得られた。

レンズの 特性(長所、短所) 癖 は数多い。

それらは解像力、周辺のボケ(粒子の流れ)、焦点深度、前ピン、後ピン、ボケ味 など気にすればきりがないが「レンズの味」とは これらの特性と作者の感性の融合から発せられる一種のオーラに似たものなのかもしれない。

しかし所謂標準レンズの守備範囲は無限に広い。時には絞り値最大で広角レンズのように、時には開放で望遠レンズのように、また時には最短距離でマクロレンズのように・・・・。

最後に
単焦点標準レンズは すべての作者に絶えず明確な姿勢を要求する。

ぶれ、ピント、露光、構図、主題、の再確認である。  簡単ではない。

生け花は 一輪挿しに始まり一輪挿しに終わる

釣りは へらぶなに始まりへらぶなに終わる

レンズ は単焦点に始まり単焦点に終わる

絞り値を5,6にセットして「この深淵なる世界」へ もう一度。