琵琶湖の最北端の町の名前は「塩津」である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると以下の通りである。
塩津(読み)しおつ
滋賀県北部,長浜市西部の旧村域。琵琶湖北岸に位置する。1955年永原村と合体して西浅井村となり,1971年町制。2010年長浜市に編入。かつては湖港で,塩津街道(現国道8号線)の要地。平安時代から江戸時代まで琵琶湖水運の要津として栄え,北国の貢米や物資を船積みした。その後は農村となったが,往時の船溜りや問屋などが残る。
片山通夫公式サイト photo:角館・秋田
琵琶湖の最北端の町の名前は「塩津」である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると以下の通りである。
塩津(読み)しおつ
滋賀県北部,長浜市西部の旧村域。琵琶湖北岸に位置する。1955年永原村と合体して西浅井村となり,1971年町制。2010年長浜市に編入。かつては湖港で,塩津街道(現国道8号線)の要地。平安時代から江戸時代まで琵琶湖水運の要津として栄え,北国の貢米や物資を船積みした。その後は農村となったが,往時の船溜りや問屋などが残る。
この白い風景は雪景色である。あまりにも暑いので気が狂ったわけではないが、少しでも涼をと思って・・・。この鉄路は豊原から北へ延びる樺太東線の鉄路。宮沢賢治も、岡田嘉子も豊原から北へ向かった。宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の構想を練り、岡田嘉子は恋人と手を携えて国境を越えてソ連に亡命した。
かつて琵琶湖の水運を担ってきたのが「丸子舟」である。丸船ともいう。おそらく中世末期ないし近世初頭のころから近年に至るまで,琵琶湖で用いられてきた特異な小型~中型船(50石~200石程度)を指す。若狭湾(敦賀,小浜)から峠を越えて琵琶湖経由で京・大坂に至るルートは,日本海岸各地と畿内を結ぶ物資流通の大動脈であったが,この湖上を南北に縦断する航路の主役がこの船であった。その外観上最大の特徴は,船首部の形状にある。つまり,おけや樽をつくるように,下方をややすぼめた短冊形の板を,縫釘(ぬいくぎ)で円筒形にはぎ合わせ,ちょうど縦半割りにしたおけのような形の船首をつくる(船名の由来)。
写真は「北淡海・丸子船の館」で。
15日は我が国が無謀な戦争に負けた記念の日である。世に「終戦記念日」と言い換えが行われている日でもある。筆者(片山)は長年、つまり1999年からサハリンで取材を続けて今日に至る。そんな中で「9人の乙女」の話を何度も聞いた。稚内には慰霊のための「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」もたてられている。写真は激しい戦闘が行われた真岡郊外の日本軍の塹壕 “戦争が奪った若き命” の続きを読む
豊原(ユジノサハリンスク)と真岡(ホルムスク)との間に熊笹峠がある。豊原・真岡間を結ぶ交通の要衝だった。1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して樺太に侵攻したソ連軍は1945年8月20日に真岡に上陸、真岡占領後は豊原市(現在のユジノサハリンスク)を目指して進軍し、それに抵抗する日本軍との間に8月20日から23日にかけて熊笹峠や宝台ループ線を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた。写真は熊笹峠に残る日本軍の塹壕。
吹雪をついて人々は集う。そして、ただただ踊る。
冬の話。
樺太の冬は厳しい。氷の世界だ。氷の世界では海にも畑にも行くことはできない。人々は集って長い冬をやり過ごす。踊り、歌いそして笑って。
筆者がだいぶ以前から不思議感じていたことはこの湖北には「塩津」とか「海津大崎」などという「海にちなんだ地名」があることだった「津」という文字の意味するところは「湊・港」だという。
朝鮮人が樺太にわたってきた時に携えていたという辞書。