
1962(昭和37)年年9月26日午前2時10分頃、五島列島・福江島の福江市(現在は長崎県五島市)で604戸の家を焼く類焼面積13万2,000平方メートルの「福江大火」が発生しました。死者はありませんでしたが811人の負傷者が出、被災者は3,936人に及びました。原因はマッチの火による失火とされ、海岸通りから中心商店街に向かって延焼、6時間の間に市街地の大半が焼け野原となったのです。
市役所庁舎をはじめ市消防車車庫、長崎県五島支庁、福江税務署、福江警察署、公立五島病院など主要官公署のほとんどを焼失してしまいました。被害額は約40億円(当時)という長崎県下では戦後最大の火災となり、激甚災害法が公布されて初めての激甚災害に指定されました。
被害が大きくなった原因については次のように指摘されています。
1)空気が乾燥しており、火元から中心街に向けて強風が吹いていた
2)福江市には消防署がなく、初期消火に時間がかかった。また、消防車が4台 しかないなど設備が貧弱だった
3)消防団の命令系統が不備で、目の前の消火活動に追われて応援を呼ぶ暇もなく、島内他地域からの応援が現場に駆けつけたのは出火から3時間以上経過してからだった
4)干潮のため海水を取水できなかった。また、各家庭で消火のために水道水や消火栓が使われ、水圧が低くなった
5)裸眼のまま活動した消防団員らは眼球に異物が大量に刺さるなど負傷をした者が多かった
6)城下町当時の町並みのため商店街には木造店舗が密集し、道幅も狭く、防火壁も備えていなかった
大火後の復興計画にはこれらの原因究明が生かされ、区画整理により福江市では前例のない歩車分離の幅員16メートルの街路3本をはじめ幅員12メートル、4~8メートルの街路、2か所の公園などを整備することになりました。
大胆な土地区画整理事業は道路や公園敷地のために無償で土地提供が求められるなど住民にとって痛みを伴うものでした。そのため各町内会別の住民説明会が開かれましたが、激しい反対運動が起き、騒然とした場面もあったようです。
大火から10ヶ月後には復興街路の第1号として幅員16メートルの「東町通り」が完成し、他の街路も次々に整備されていきました。商店街にはアーケードが整備され、その後の福江市は五島列島の中核都市として発展したのです。事業費3億6千7百万円にのぼった福江大火復興事業は4年後の1966(昭和41)年8月末に完了しました。
福江市(当時)は無防火都市から近代的な防災都市に生まれ変わりました。これらの経緯は国内における防火防災モデルケースとなったといわれています。