晴れの国紀行《北前船が運んできた富・下津井》片山通夫

岡山・下津井湊

むかし下津井回船問屋・下津井

3月も半ばだが、まだ寒い時期に「備前の国・岡山」に行くことにした。だいぶ以前から下津井と言う港町に興味があった。本州と四国を結ぶ明石海峡大橋と瀬戸大橋、少なくともこの二つの橋は、明石と下津井の町を激変させたようだった。明石は何度もいった。東経135線が町を南北に貫き日本の標準時を定めた明石、また神戸と言う大消費地を控えた明石は瀬戸内海で獲れる海産物の町でもある。一方の下津井は横溝正史の小説に出てきたのでその名を知った。

瀬戸内海の他の湊町と同様、下津井も風待ち、汐町待ちの北前船で賑わったそうだ。町には「むかし下津井廻船問屋」と言う当時の建物が残っていた。そもそも廻船問屋とは、江戸時代,廻船を所有し物資輸送を業とした海運業者を指す。 輸送だけでなく物資の売買をも兼ねたものが多い。今でいう総合商社。
下津井も北前船が集まってくる湊町だった。エンジンのない時代の船は風や潮の流れが航行を左右する。まったく風が吹かず、汐も流れないときは「汐待ち、風待ち」で船は湊に停泊を余儀なくされた。

話は変わる。そもそも児島はその字の通り島だった。それが陸からだんだん干拓されて現在のように海は消え、島と岡山側は地続きになったらしい。古来、瀬戸内海に浮かぶ児島と本土との間には、20余りの島々が点在する「吉備の穴海」と呼ばれる浅い海が広がり、また吉井川、旭川、高梁川の三大河川がこの海に流入しており、その上流の中国山地では「備前長船」などの刀工に必要な、たたら製鉄の砂鉄採取が長く続けられてきたことから、大量の土砂が海に流れ込み、それが堆積して干潟が発達していたため、この地では古代から干拓が続けられて来た。(岡山県HP:https://www.pref.okayama.jp/page/528904.html

さて次の話題。その干拓地だった児島は農業には向かない土地だった。どうしても塩分が土壌に含まれていたので稲作は出来なかったらしい。そこで児島では比較的塩分に強い綿花の栽培が盛んになって、綿を用いる繊維産業が興って小倉織や真田紐づくりが発達した。こうした繊維産業を基盤として、明治・大正時代にかけて足袋さらに学生服の産地が興り、これが昭和40年代以降のデニム・ジーンズ産業の集積地の形成に繋がった。児島はこのようにして発展してきた。

どうも脱線が多い。話を北前船(きたまえぶね)に戻す。
まず北前船の北前はなぜそう呼ばれてきたかだが、例によって諸説があるようだ。北廻り船がなまったという説、北前とは、大阪や瀬戸内からいうところの日本海の意味で、日本海を走る船だからという説など、いくつかある。日本海の敦賀(福井県)も北前船の寄港地で、今も北海道産の昆布などが扱われている。日本海の西回りの航路が開発される前には、琵琶湖の水運を利用すべく敦賀から琵琶湖の北端までの運河の掘削が計画されていた。その名残ともいうべく、「疋田宿」という宿場町が今に残っている。疋田は江戸時代に塩津道と西近江路が合流する追分の宿として賑わい、小浜藩本陣も置かれた当時最大の宿場町だった。
日本海の海運大動脈であった北前船は、航海技術の発達に伴い瀬戸内海を経由して大阪へ直接乗り入れる「西廻り航路」が開発されるまでは、日本海沿岸地域の港で諸物資を下ろし、その後は陸路で太平洋側の地域へ運ばれた。

下津井廻船問屋は鰊粕で栄えた

日本海を回ってきた北前船は、または京・大阪と言う大消費地、もしくは集積地だった大阪を後にする北前船は瀬戸内の港で商いをしながら航海をする。よく知られているように、「動く総合商社」だった北前船は寄港する港で荷をおろし、そして荷を積み込む。つまり単に運搬するだけでなく、それぞれの荷を売買するわけだ。ここ下津井(岡山県倉敷市)も同様大きな廻船問屋があり、北前船と取引が盛んだった。下津井は、かつて瀬戸内海航路の監視を目的とした「下津井城」が築かれていた地区だったため、当初は城下町として発展、江戸から明治にかけては、当時物流を担っていた「北前船」の寄港地としても繁栄し、町には回船問屋の邸宅や蔵が残っている。同時に風待ち、汐待ちの港として船乗りなどの遊興の町としても花街も栄えた。

児島ジーンズ

「北前船」との交易は今日の「ジーンズの街・児島」の発展に欠かせない要素だった。児島はもともとは淡路島と同様島だった。しかし吉井川などからの堆積土や、恣意的な干拓の結果、児島は現在のような形になった。しかし塩分を含んだ土壌は米作に適せず比較的塩分に強い綿花を栽培するようになった。綿花の栽培に必要な肥料が北前船が北海道から運ぶ鰊粕だった。