現代時評《中国憎し関税の真意》井上脩身

アメリカのトランプ大統領は4月9日、約60カ国・地域に最大50%の相互関税を発動、その日のうちに中国以外は「90日間停止する」と発表した。中国に対しては関税を125%に引き上げ、発動済みの20%の制裁関税と合わせて145%の高関税を課すこととした。トランプ氏の「中国憎し」ともいえる関税策が世界中に波紋を広げるなか、バンス副大統領が「中国のペザント(農民)から金を借り、その農民が作った製品を買っている」と発言したことが物議を醸した。この「ペザント借金発言」に、「中国憎し関税」の真意を読み解くカギがひそんでいるのではないか。そんな直感がはたらき、わたしはバンス氏の著書『ヒルビリー・エレジー』のページを繰った。

『ヒルビリー・エレジー』は2016年、当時31歳だったバンス氏が、出生から弁護士になるまでをふりかえったもので、「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」の副題がついている。日本では2022年、光文社から文庫本で刊行された。400ページを超える大著である。以下はその概要。
バンス氏が生まれ育ったのはオハイオ州ミドルタウンだが、そこから約300キロ南東の、祖母の古里・ケンタッキー州の丘陵地帯の人口約6000人の町・ジャクソンに強い愛着をおぼえている。このジャクソンについて、バンス氏は「はびこる貧困や離婚や薬物依存症など、私の故郷はまさに苦難のただなかにある」といい、自らを含め、そこに住む人たちを「ヒルビリー」と呼ぶ。ヒルビリーとは、日本語大辞典によると「アメリカ中南部、アパラチア山脈南部の丘陵地帯に住む農民」のことだが、大辞泉は「田舎者を軽蔑的に呼ぶ言葉」と補足する。
ミドルタウンは鉄鋼メーカー、アームコ・スチールの企業城下町。ここでバンス氏は看護師でありながら薬物依存症である母親のもとで少年時代を送った。母親は何度も離婚。自宅の周りでは、無気力な白人労働者たちの間でのけんかが絶えず、子どもの生育のうえでは最悪の環境だ。1989年、アームコ・スチールと川崎製鉄が合併してアームコ・カワサキ・スチールが生まれた。祖父が「日本人はもうおれたちの仲間だ。あの辺の国と戦争するとしたら、敵は中国だ」と言ったのをバンス氏は鮮明に覚えている。
看護師免許更新のための検査に際して、母親がバンス氏に「クリーンな尿をくれ」といいだしたことを機に、バンス氏は母親と離れて祖母と同居する。結果としてこのことがバンス氏の人生を大きくかえる。周囲には子どもに「勉強しろ」とはいわない親が多いなか、一本気な性格の祖母は高度な計算ができるグラフ電卓をかってくれ、バンス氏は勉強に精を出した。オハイオ州立大を経て、イェール大学ロースクールに進学。同級生のほとんどは裕福な家庭の子弟だ。卒業後、一流の法律事務所に所属する弁護士になり、ヒルビリーには無縁なはずのアメリカンドリームを達成したのである。
超エリートになったバンス氏だが、忘れられないのは祖母が亡くなったあとの遺産整理のときのこと。薬物依存の母親から返済されていない巨額の借金があったのだ。ロースクールが終わりに近づいたころ、母親が新たにヘロインに手を出していたことがわかった。「私はついに、母に絶望したのかもしれない」とバンス氏はしたためる。

「敵は中国」というバンス氏の父親の言葉はある意味で当たっていた。2001年、中国がWTO(世界貿易機関)に加盟するともに、工業製品の輸出成長率は毎年30%以上もの伸びを示した。これがアメリカの製造業を直撃し、2007年までに雇用者数が55万人減少。アメリカはこの「チャイナショック」の影響をその後も受けつづけた。2024年の貿易赤字額1兆2117億ドルのうち、中国がトップの2954億ドルと24%も占め、貿易赤字の最大の原因国となっている。
こうした数字に隠れている魔物が合成麻薬だ。2017年に朝日新聞が電子版で報じた記事によると、アメリカの薬物の過剰摂取による死者は約7万人。そのうち合成麻薬の一種、フェンタニルによる死者は約2万8000人で、13年の3000人から急増。主に沈痛剤として使用されるフェンタニルはヘロインの50倍の効力があり、吐き気や無気力症などの副作用がある。2024年4月、米下院中国特別委員会は「中国政府はフェンタニルの原料の製造・輸出をする企業を支援することで、アメリカに薬物蔓延による社会危機を引き起こそうとしている」との報告書をまとめた。

バンス氏は、フェンタニルがヘロインの50倍もの危険薬との報道に驚愕したに違いない。薬物依存がこうじてヘロインにまで手を出し、あげくのはて借金苦に陥った母親の地獄の日々を思い起こせば、フェンタニルの危険性は想像を絶するレベルであろう。「敵は中国」という祖父の言葉が重くのしかかってくる。中国からの輸入の急増にともない、白人労働者の働く場がなくなり、低所得、無気力、低学歴へと負のスパイラルに陥っていく。ヒルビリーは雇用喪失と薬物中毒の二重苦にさいなまれている。
以上のようにわたしはバンス氏の胸のうちを推測するのであるが、『ヒルビリー・エレジー』の内容からみれば、基本的には間違ってはいまい。
2022年、バンス氏はトランプ氏の支持を得て、上院議員選で当選、トランプ氏が2期目の大統領選に立候補すると副大統領候補に指名された。大統領になったトランプ氏は「タリフマン」を標榜し、「偉大なアメリカを取り戻すために関税をかける」と豪語したが、アメリカ国債が売られる騒ぎとなり、発動を延期した。だが、すでに述べたように、中国だけは関税対象から外さなかった。
この中国外し政策にバンス氏がどこまでかかわっていたかは定かでない。だが、トランプ氏の大統領就任前日の1月19日、バンス氏が中国の韓正・国家副主席と会談、フェンタニルについて協議したことが、大統領としての第一歩を踏み出さんとするトランプ氏に強く影響したことはまぎれもない。トランプ氏は合成麻薬の流入対策不備を理由に20%の制裁関税を中国にかけたのである。こうした推移から、「関税90日間停止」の判断に際して、バンス氏が「麻薬がストップされないかぎり、中国にたいしては関税で絞りあげるべし
と進言した、とわたしはみる。

ところで冒頭に述べたバンス氏の「中国のペザント(農民)から金を借り、その農民が作った製品を買っている」発言である。「ペザント」には「田舎者」という侮蔑の意味合いをもつ(4月17日、毎日新聞1面コラム「余録」)という。「田舎者を軽蔑的に呼ぶ言葉」でもあるヒルビリーと相似たひびきがあるではないか。「金を借りる」表現には、母親のヘロイン借金地獄が重なる。うがった見方かもしれないが、バンス発言にはチャイナショックと薬物地獄の二重の意味を秘めているように思われる。ところで、農民を表すのに「ファーマ―」でなく「ペザント」を使ったのは、ヒルビリーであるバンス氏が中国のペザントに同情の念をいだいているからであろうか。そうだとすれば、中国への高関税は結果としてペザントの貧しい暮らしを直撃することになり、自己矛盾をきたす。関税は結局のところ、貧しい者に犠牲を強いる愚策にほかならないのだ。
バンス副大統領はアメリカの貧しい田舎者のためにのみ力を注ぐのか、それとも世界中の貧しい田舎者の支援をするのか。アメリカの今後はバンス氏にかかっているのかもしれない。