「大正ロマン」とは大正時代の趣を伝える思潮や文化事象を指す言葉である。それはそこはかとなく郷愁を感じる時代でもあった。次の昭和の時代になると、戦争の記憶が先に出てきて暗い時代になり、挙句の果てには思想も文化、文学も追いやられる時代になったあげく、空襲で大都市は焼け野原に、そしておぞましい原爆が落とされた。
啄木と夢二


そんな悲惨な戦争の兆候がまだなかった頃、我が国にもロマンの花が咲く時代があった。
勿論筆者は大正時代にはまだ生まれていなかった。けれどもなんとなくこの時代に郷愁を覚える。なぜだかわからない。特に石川啄木の短歌や竹久夢二が描く少女の絵になんとなく「ロマンの香り」を感じるのだ。それは決して筆者だけではないとは思う。啄木は自らの生活の苦労などを詩歌に残していて、なぜか「ロマンの香り」を感じる。決していわゆるロマンチックな生活をしていたわけではないだろうに。
啄木は1886年〈明治19年〉- 1912年(明治45年〉、竹久夢二は1884年〈明治17年〉9月16日 – 1934年〈昭和9年〉だから生きた時代は重なるのだが、公式には両者には接点がなかったようだ。
もう一度ここで大正ロマンとやらを振り返ってみてみる。簡単に言うと、大正時代の趣を伝える思潮や文化事象を指す言葉である。「大正浪漫」とも表記される。その前の明治時代は、徳川幕府の時代で、鎖国政策だった。国内の文化はそれなりに、幕府の締め付けもあったが、浮世絵や歌舞伎、漆器、陶芸などに代表されるような高度な文化を持っていた。しかし往々にして自らはその文化工芸を評価しえなかった場合もあったように見受けられた。浮世絵などは1867年のパリ万国博覧会で幕末だった当時の日本に、日本の農業製品や産業製品、芸術品を展覧会に出品してほしいと声がかかり、第15代将軍・徳川慶喜公がこれを受け、日本美術の出品が実現した。
大正ロマン(たいしょうロマン)
大正期にみられる個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮、和洋折衷の様式や新旧が融合した当時の大衆文化が、大正ロマンに当てはまる[1]。これを源流にして創出された後世のポップカルチャーに対しても「大正ロマン」の語が適用されることがある。
大正ロマンという言葉は1960年代末から1970年代前半に広まったと考えられている。学術領域では恋愛や熱情といったロマン主義(明治浪漫主義)の流れを汲む、大正期の芸術を紹介するために使われた。
一方で後世から見てファッションや建築などが独自の文化であったため、レトロかつノスタルジックでロマンチックな大正のイメージを抽出した言葉としても受容されていった[5]。似た言葉に「大正モダン」「大正レトロ」があるが、同義語としても使われる。
参考
大正ロマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3
大正ロマン/10分でわかるアート
https://sfumart.com/column/10minart_40/