現代時評[写真よもやま話ー2ー]片山通夫

時間はどんどん飛んでしまい、思い出すまま時系列なんてめんどーだとばかりに、某写真学校に通った時の話。いわゆる夜学生だった。確か夕方18時頃から21時までだったと記憶する。学校の場所は大阪梅田の近辺にあった関西テレビの横のビルの地下だった。大阪駅から学校まで行くのに太融寺というお寺の横を通る。近所には読売新聞大阪本社というのもあった。しかし特筆?すべきはその太融寺界隈は今でいうラブホテル街。もちろんボクはうつむいて足早に通り過ぎるだけだった。(ホンマかいな?の声しきり)

余談はさておき、学校のこと。大体においていわゆる「報道写真」なんてカリキュラムはなかった。あったのはコマーシャル課程。ただたった一人某大手新聞社の写真部にいたという講師がいた。僕はこの講師先生にピッタリくっついて彼の経験話を夜ごと聞いて過ごした。彼はいわゆるスタッフカメラマンだったので自由なテーマで撮りに行くというわけには行かなかったようだった。
けれども独立してからは自由な、つまり自分でテーマを決めてそれを撮るというスタイルになったけれど、なかなか経済的に苦しい生活だと話していた。
フリーの記者やカメラマンはまず記者クラブから弾き飛ばされる。勢い本来のテーマには遠ざかるというわけだ。これはフリーの記者やカメラマンには致命的だった。だから大きなテーマで、取り組むしかなかった。恐れ多いが土門拳氏の「筑豊の子供たち」のように。

レオタックス

ボクもその講師先生のようになってしまった。それでいろいろ考えて、視野を世界に広げて図書館通いをして勉強した。いきなりのベトナム戦争など戦争の世界は恐ろしかったので、本当は「マタギの世界」を撮ることにした。何を間違ったのかボクはカメラ一台と数本のフィルムをもって、岩手の遠野から、もっと田舎のほうへ出かけた。僕の住んでいる町も今でこそ人口も増えて快適な暮らしができるようになったが、その頃はつまりど田舎だった。そんな田舎者が岩手の山奥へ出かけたわけだ。カメラは、レンズはトプコール50ミリf2だったと思う。(このレンズは定かではない)バスに揺られて行ったのはよかったけれど、言葉が全く通じない。ボクはこてこての大阪・河内弁、相手は外国語かと思われる岩手言葉。