
福岡市・姪浜港の北西約40kmに浮かぶ小呂島(おろのしま)は面積が0.45?、周囲が5.9㎞の小さい島です。テレビで“絶海の孤島”と紹介しているのを見ましたが、高速船で65分で九州島の港に着き、他の島影が見えるようなところを“絶海の孤島”とは大げさな表現だと思いました。波風荒い玄界灘にあって3日に1回以上欠航する(2022年の欠航率36%)ほどで渡航しにくいということを表したのでしょうが、かつては玄界灘の真ん中にあって交通の要衝とされ、領有権争いが起きたほど重要な島でした。
小呂島は古くから宗像大社の社領だったようですが、鎌倉時代の1252(建長4)年頃に南宋出身の博多商人・謝国明(しゃこくめい)が日本人である妻の地頭を名乗って領有権を主張しました。宗像大社は鎌倉幕府に訴え、謝国明は幕府から戒告を受けたことが記録にあります。後醍醐天皇による建武政権も宗像大社の小呂島所有を保障しています。中世の小呂島は海上交通の要所だったので宗像大社は領有権を巡って熾烈な訴訟を繰り広げたということです。
平安時代後半から宋商人による私貿易が始まり、九州の博多に住みついた宋商人たちは「博多綱首(はかたこうしゅ)」と呼ばれました。彼らは有力な寺社や貴族と結びつき、日本と中国の間だけでなく広く東アジア海域で13世紀後半まで貿易活動を展開しました。博多網首たちの活動によって博多は多くの外国人が行き来する国際都市となり、文化的水準を高まりました。
謝国明はその博多綱首の代表的な人物で、のちに日本に帰化して謝太郎国明(しゃたろうくにあき)と名乗りました。禅宗をはじめとした中国の文化を博多に紹介し、承天寺を創建したほか、博多鋏の元となった唐鋏を伝えたともいわれています。飢饉や悪疫で多くの庶民が苦しんでいた年の大晦日、謝国明は貧しい人々のために蓄えていたそば粉などを持ち出して承天寺境内でそばを振る舞ったというエピソードもあります。これが年越しそばの発祥とされ、同寺に「饂飩蕎麦発祥地」の碑が建てられています。
小呂島は大陸へ渡る鳥のルートに当たり、現在でも休憩場所とする野鳥の宝庫にもなっています。