

岡山県の備前焼きの里に隣接した同じ備前市の山あいにその学校はあった。山深い谷に忽然と表れた建物は眼を見張る規模である。この閑谷学校と名付けられた学校は、江戸時代初期の寛文十年(1670年)岡山藩主池田光政公が日本初となる「庶民のための学校」閑谷学校を設立した。当時の藩校はすべて武士階級の子弟が学ぶための藩校だった。有名な藩校に、庄内藩の致道館、会津藩の日新館、水戸藩の弘道館、松代藩の文武学校、岡山藩の花畠教場、萩藩の明倫館などがある。中でも寛永18年(1641年)池田光政公が創設した花畠教場はわが国でもっとも古い藩校だったが、武士階級しか学ぶことができなかった。閑谷とはその文字の通り「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称えられた場所を表す。この学校の特筆すべき点は「庶民のための公立学校で閑谷学校」として創建されたこと。当時の藩校は武士社会だったが為、言うなれば武士階級の為の学校だった。しかしこの閑谷学校は広く庶民にも解放された。そして明治、大正、昭和の時代を通じて、さまざまな分野で現在の日本の歴史を形作る有能なリーダー達を輩出してきた。
瓦は備前焼
閑谷は岡山県備前市に位置する。備前と言えば日本六古窯のひとつで「堅くて割れにくいため、茶器や茶陶として愛用され、庶民の日用品として使われている。1982年に国の伝統的工芸品に指定される。
その備前焼が1697年(元禄10年)から着手した備前焼瓦葺きの講堂、習芸斎、飲室が成り、現在我々が目にする閑谷学校の全容が整った。
池田光政公
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF