現代時評《大川原冤罪事件にみる特高警察体質》井上脩身

化学機械メーカー、大川原化工機(横浜市)の噴霧乾燥器輸出をめぐる冤罪事件で、東京高裁から違法な捜査・起訴と認定された国と東京都は6月11日、上告を断念、警察・検察のでっち上げ事件であることが確定した。わたしはこの報道に接し、1952年に起きた菅生事件を思い起こした。共通するのは、法令の施行・改正に際し、存在しない事件をつくりあげて出世の道具にした点だ。「非国民」の弾圧のためには無実の者をも地獄に落とす戦前の特高警察の体質が、戦後80年のいまも公安警察に脈々と流れていることを示した組織的権力犯罪なのである。

大川原化工機が噴霧乾燥器を中国に輸出したのは2016年6月のことだ。噴霧乾燥器は液状のものを霧状にして熱風の中にまき、水分を蒸発させて粉末にする機械。インスタントコーヒーから医薬品まで、さまざまな製品に使われている。大川原化工機は社員約90人の中小企業だが、この分野ではリーディングカンパニーである。
噴霧乾燥器は、悪用すれば生物兵器の製造に転用されるおそれがある。生物兵器をつくるには作業員の感染を防ぐ機能が欠かせないため、2013年、貨物等省令が改正され、「内部を殺菌できるもの」が輸出規制の対象になった。その内部殺菌について、国際基準では「化学物質を使う」とされている。大川原化工機が輸出した噴霧乾燥器は内部を殺菌できず、国際基準に照らして何ら問題がないものだった。
警視庁公安部外事1課5係の捜査員は2017年、輸出管理担当者向けの講習会で噴霧乾燥器が輸出規制の対象になったことを知った。M係長(警部)は「新しくできた規制での立件第1号を」と、大川原化工機の輸出品に目をつけて捜査を開始。省令解釈をねじまげ「付属のヒーターで装置内部を熱し続ければ菌は死ぬ」として、2020年3月、大川原化工機の社長ら3人を外為法違反容疑で逮捕、起訴した。ところが、初公判4日前の2021年7月、東京地検は急遽起訴を取り消した。省令解釈のねじまげが裁判で問題になることを見こしての判断であった。

大川原化工機側は2021年9月、約2億5000万円の損害賠償を求めて国と東京都を提訴した。この公判で2人の現職警察官から「事件は捏造」と、前代未聞の証言が飛び出し、東京地裁は2023年12月、警視庁公安部の取り調べと逮捕、東京地検の起訴の違法性を認めて約1億6200万円の賠償を命じた。東京高裁の太田晃詳裁判長は地裁判決を支持したうえで、「独自に拡大解釈した公安部の判断は合理性の欠ける」と認定。「通常要求される捜査をしていれば、噴霧乾燥器が輸出の規制品に該当しない証拠を得ることができた」として、国と都に約1億6600万円の損害賠償を命じた。
以上が大川原化工機冤罪事件の概要である。わたしが注目したのは、安倍政権下で省令が改正されたのを機に、公安部がその第1号としての立件をもくろんだ点だ。
生物兵器については、生物兵器禁止条約で開発や生産が禁止されており、いかなる国・地域に向けても生物兵器に転用可能な機器を輸出してはならないのはいうまでもない。そのなかでも、武器輸出三原則(2014年、防衛装備移転三原則に変更)で武器輸出が禁じられた共産圏の国である中国に噴霧乾燥器を輸出したとあって、M係長は胸躍るおもいをしたのではないだろうか。中国脅威論をふりかざしていた安倍政権下で、生物兵器の製造に転用されるおそれのあるものを中国に不正に輸出した会社を摘発すれば、大いに評価されるにちがいない、とM係長は考えたであろう。ところが、大川原化工機の噴霧乾燥器は国際基準上の問題はなく、立件できない。そこで省令の解釈を強引に変えて立件にこぎつけたという次第だ。これが称賛され、警察庁長官賞、警視総監賞を受賞(その後返納)、M係長は後に警察署の警備課長(警視)に昇進した。

わたしは、現在の公安警察が約70年前の菅生事件から何の教訓も得ていないことに愕然とした。
菅生事件は1952年6月、阿蘇山ろくの大分県菅生村(現・竹田市菅生)の駐在所で、ダイナマイト入りのビール瓶が爆発、建物の一部が破壊された事件である。警察は日本共産党員ら5人を爆破の犯人として逮捕・起訴した。事件発生前、警察は現場付近に100人も張りこませた。新聞記者も待機しており、新聞で「日共組織を一斉検挙」と報じられたが、やがて、被告らの犯行とみるには不自然な点が浮かび上がった。起訴状では被告らがダイナミトを外から駐在所に投げ込んだとされたが、鑑定の結果、ダイナマイトはあらかじめ駐在所内に仕掛けられていたとわった。
事件前、被告らは「共産党シンパ」と自称し、「市木春秋」と名乗る男から駐在所近くの中学校に呼び出され、「市木」と別れた直後に爆破が起きていることから、「市木」が事件のカギを握っていることが明らかになった。被告らの調査で「市木」は国家警察大分県本部警備課のT巡査部長であることが判明。T巡査部長は行方をくらましたが、1957年、共同通信記者が東京・新宿区のアパートに潜伏していることを突きとめて直接取材ところ、T巡査部長は警察大学校にかくまわれていたというのであった。
以上の経過から、駐在所爆破はT巡査部長もしくは彼の上司の指示に基づく自作自演事件の疑いが強まり、福岡高裁は1958年6月、5人に無罪判決を下し、1960年1月、最高裁で無罪が確定した。
菅生事件のポイントは破壊活動防止法(破防法)が制定される1カ月前に起きたことだ。1950年に朝鮮戦争が勃発したのを機に、共産党員をターゲットにしたレッドパージの嵐が吹き荒れ、破防法の制定が政治問題化していた。こうしたなかで起きた菅生事件は「日共は恐ろしい」との恐怖心を国民にかもし、破防法制定の後押しをしたのであった。
T巡査部長は日本共産党へのスパイ活動の際に爆発物運搬に関する罪を犯したとして起訴され有罪になったが、警察官に復職、昇進を重ね、警察大学校術科教養部長(警視)へと、ノンキャリア組としては異例の出世をとげた。警察はT巡査部長を、事件をつくりあげたうえ、無実の者を犯人に仕立て上げた悪徳非道な警察官ではなく、日共つぶしのための破防法制定の立役者と評価したのである。警察学校がT巡査部長をかくまっていた事実をみれば、「破防法のための警察組織あげての権力犯罪」というべきだろう。

さて大川原化工機冤罪事件である。逮捕された3人のなかに同社の元顧問がいた。元顧問は勾留中に胃がんと診断されながら保釈されず、2021年2月に亡くなった。元顧問の非業の死は哲学者、三木清の無念の獄死を彷彿とさせた。マルクス主義の研究もしたことがある三木は終戦前の1945年、治安維持法違反で脱走した知人に金を与えたかどで、同法違反容疑で逮捕され、同年9月、刑務所内で腎臓病を患って死亡した。同法が廃止される1カ月前のことだった。
治安維持法は国際共産主義の拡大をおそれて1925年に制定された思想弾圧法だ。この法律によって、「日本共産党の再建を図った」などとして特高警察が戦時中、編集者や新聞記者ら60人以上を逮捕した。横浜事件とよばれ、被告らは「無実」を訴えたが4人が拷問によって死亡した。
戦後、治安維持法が廃止されて7年後に菅生事件が起きたことは、共産主義者らを一網打尽にしてきた特高警察の体質が、戦後の公安警察に受けつがれてきたことを証明した。そして今回の大川原化工機冤罪事件である。元顧問は戦前的特高体質によって命を奪われたといえなくもない。弾圧、冤罪、獄死。公安警察にとって、憲法が保障する基本的人権は存在しないにひとしいと断じるほかない。戦後80年。戦後民主主義は一時の夢でしかなかったのだろうか。ただただむなしい。