連載コラム・日本の島できごと事典 その171《日本軍の住民虐殺》渡辺幸重

天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨之碑

自民党の西田昌司参議院議員が「(ひめゆりの塔の説明は)歴史の書き換え」などと発言したこと、参政党の神谷宗幣代表(参議院議員)が「日本軍は沖縄の人を殺したわけではない」と擁護したことが問題になっています。現職国会議員が戦前の大日本帝国の価値観を押しつけようとする姿には唖然としますが、沖縄戦において日本軍が沖縄の民間人を虐殺した事件は体験者によって多く語られ、史実として定着しています。その一つが「久米島(くめじま)守備隊住民虐殺事件(久米島事件)」です。

久米島は沖縄島・那覇から西方約90kmに位置する沖縄県内では5番目に大きな島です。第二次世界大戦中は日本海軍守備隊が駐留していました。守備隊と言っても名前だけで実際は実戦部隊ではない海軍見張隊 (電波探知隊)でした。その数は通信兵など27人とか約40人、約30人、30数人、35人、34人と資料によって異なります。
1945(昭和20)年6月の激しい戦闘で沖縄島を占領した米軍(約千人)は6月26日に久米島に上陸、日本軍守備隊は山中に逃げ込み、米軍が島を占領しました。

6月27日、未明に米軍に拉致された郵便局員が命ぜられるままに日本軍への降伏勧告状を守備隊を指揮していた鹿山正・海軍兵曹長に届けたところ、鹿山は「敵の手先」と怒鳴ってピストルで郵便局員を撃ち、部下に命じて銃剣でとどめを刺させました。それを聞いた郵便局員の妻は川に身を投げて自殺し、母もショックで寝込みまもなく亡くなりました。

6月29日、米軍上陸2週間前に偵察に来た米軍工作部隊に拉致され、26日の米軍上陸時に解放されたていた区長と区警防団長が米軍のスパイと見なされて守備隊員に2家族9人が刺殺されました。遺体は焼き払われた家屋に残されましたが、親族は日本軍が恐ろしくて遺骨を拾うこともできなかったそうです。

8月15日のポツダム宣言受諾以降も虐殺は続き、8月18日には久米島出身の海軍兵一家4人が守備隊の手によって殺害されました。この海軍兵は米軍の捕虜でしたが米軍の案内役として久米島に戻った人です。米軍には艦砲射撃をやめさせ住民には投降を訴えたので住民に“命の恩人”とされた人ですが、日本軍守備隊に殺され、家も焼かれました。このとき妻と2歳の乳児も犠牲になっています。

8月20日には朝鮮人一家7人が鹿山に命令された住民と部下よって惨殺されました。

日本軍守備隊が“処刑”した住民は「5件22人(一説では29人)」とされ、守備隊の中にもアメリカ軍に特攻しながら生きて帰ってきたために“処刑”された人など3人が犠牲者がいるとされます。ただ「直接の殺害だけで26人は死亡した」などの記述もあるので実態はもっとひどいかもしれません。
久米島に建立された「痛恨の碑」には犠牲者として「安里正一郎氏/上原区長 小橋川共晃氏/警防団長 糸数盛保氏/宮城未明氏一家三名/比嘉亀氏一家四名/仲村渠明勇氏一家四名/谷川昇(具仲會)一家七名」と記されています。

日本軍の久米島守備隊は9月7日に投降し、事件の罪を問われることもなく、隊員は全員本土に帰還したということです。このときの日本兵は守備隊に不時着したり避難してきた兵なども含めて40余名だったそうです。

これらの虐殺事件が明るみになったのは1972(同47)年のことです。このとき鹿山はマスコミの取材に「処刑は部隊を守る行動として正当な業務行為であった」と答えています。元日本兵の「守備隊は疑心暗鬼にかられ島民に凶刃を振り下ろす殺戮部隊であった」という証言もありますが、テレビ局に電話がかかってきた視聴者の声は、沖縄からの「やつざきにしてやりたい」という怒りの声に対して、本土からの7割は「戦争の犠牲は沖縄だけではない」「もういいではないか」でした。

西田議員や神谷代表の発言、国の沖縄に対する仕打ちなどをみると、この意識の落差が埋まったとは感じられません。私たちは歴史から何を学ぶべきでしょうか。事実に目をつぶるべきではないと思います。