散歩道《山城国分寺跡》片山通夫

話は前後する。風土記などを読んでいると、国分寺という名称がよく出てくる。辞書的に説明すると、国分寺とは741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院を指す。国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。

仏教によって国の安全を護るための寺院を国分寺というが、世の常、時代の新旧を問わず、当初は国司の怠慢から国分寺の建立は進まなかったようだ。ゆえに747年(天平19年1月)に「国分寺造営督促の詔」を出し、造営体制を国司から郡司層に移行させ、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。

律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。

ボクがこの国分寺に興味を持つのは、ボクにとっては「幻の京」であった恭仁京(くにきょう)の場所を偶然知ったからである。恭仁京は木津川に近い京都府木津川市加茂町にある。

エッセー[2025年夏の涙]片山通夫

ヒロシマに投下!

あれから80年。この夏は節目の年だとあちこちで戦争にちなむ催しがあるようだ。

さて今日は8月9日。ナガサキに米陸軍の爆撃機が原子爆弾と言うとんでもない、まだ人類が経験したことのない爆弾を投下した。時間は11時2分。これに先立つ6日にはヒロシマに。ナガサキに落とされた原発の名前はファットマン。ヒロシマにはリトルボーイと言う名前がつけられていた。ナガサキのそれは「太っちょ」、ヒロシマの原爆にはリトルボーイ、つまり「チビ」。

今日、ナガサキの慰霊祭を見ていたら涙が出てきた。7万人の市民を一瞬に焼き殺した爆弾の名前が「太っちょ」だと。
ふざけている。2025年夏の涙。

散歩道《あおによし》片山通夫

「あおによし」は、青丹(あおに)という顔料の色が美しい奈良の都の様子を、「咲く花の薫るがごとく今盛りなり(咲き誇る花が香るように、今が最も美しい盛りである)」と表現した歌に由来しているらしい。710年から794年のおよそ90年間の奈良時代は律令制度が確立され、天平文化に代表される仏教文化が花咲き、国際色豊かな、唐の影響を大きく受けた時代だった。 “散歩道《あおによし》片山通夫” の続きを読む

散歩道《奈良町辺りから二月堂へ》片山通夫

東大寺戒壇堂辺り

 

前に書いたと思うが、奈良町と言う古(いにしえ)の奈良を彷彿をさせる一角がある。飛鳥から移ってきた元興寺の寺内町だったとおもわれるが、もしかして境内だったのかもしれない。当時の寺院は絶大な力を持っていた。この寺院の屋根瓦の一部だろうが飛鳥時代のものだと言われている。寺院を飛鳥から今でいう奈良町まで運んで来た経済力には驚かされる。 “散歩道《奈良町辺りから二月堂へ》片山通夫” の続きを読む

散歩道《継体天皇》片山通夫

生年も没年もよくわからない不可思議な天皇がいた。第26代継体天皇のことだ。。元の名はヲホドノオウ。彼は450年生まれで没年は531年とされる。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市)に生まれた。滋賀県生まれというのも変わっているし、育ちは母方の故郷福井県三国辺りと言われている。その事実だけを見ても、決して幸せな育ちだったとは思えない。 “散歩道《継体天皇》片山通夫” の続きを読む

現代時評《一枚の写真》片山通夫

焼き場に立つ少年

既にご存じの方も多いことだと思う。この写真は「焼き場に立つ少年」と名付けられたアメリカ人のカメラマンが1945年長崎で撮ったものである。写真は歯を食いしばって一点を見つめる少年の姿を、おそらく彼の前で燃やされている火を見つめているさまが的確に捉えている。焼き場というタイトル名から、その火が火葬の火であることが理解できる。 “現代時評《一枚の写真》片山通夫” の続きを読む

散歩道《飛鳥から奈良へ・元興寺》片山通夫

元興寺の屋根

奈良時代と言うと一番に思い浮かぶのは「奈良漬」だというのは、我ながら、いささか恥ずかしい。奈良時代の長屋王の邸跡から出土した木簡に「進物加須津毛瓜(たてまつりものかすづけうり)」と記されていたものが出た。これは約1300年前の奈良時代にまで遡る。ボクは1300年前から、あの謀反の疑いで自害を余儀なくされた長屋王が頂き物の瓜の粕漬けを食べていたことを知って、いっそう長屋王に親しみと憐れみを感じる。 “散歩道《飛鳥から奈良へ・元興寺》片山通夫” の続きを読む

散歩道《額田王》片山通夫

額田王像(滋賀県立美術館蔵)

かなりおおらかな時代、飛鳥に都があった時代の話。額田王は彼女の和歌を読む限りだが「恋多き女」だったようで、言い換えれば相当情熱的な女性だったとボクは思えるのだけど。勿論ボクだけでなく皆さんもそうだろうけど・・・。
彼女は大海人皇子のかつての妻で十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけている。そして天智天皇(中大兄皇子)の寵愛を受けている。ご存じの通り天智天皇は天武天皇と兄弟。 “散歩道《額田王》片山通夫” の続きを読む

散歩道《陰陽師・安部晴明に会える土御門家史蹟》片山通夫

天壇(名田庄で)

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。つまり天文学などのプロと考えればいいのだろう。 “散歩道《陰陽師・安部晴明に会える土御門家史蹟》片山通夫” の続きを読む

散歩道《石舞台と飛鳥寺》片山通夫

曽我馬子の墳墓かと思われる石舞台

明日香村(あすかむら)と飛鳥(あすか)は、どちらも奈良県高市郡に属する地名だが、厳密には意味が異なるらしい。明日香村は、高市郡の旧飛鳥村、旧高市村、旧阪合村が合併してできた村の名前で、一方、飛鳥は明日香村の中の大字(おおあざ)の一つであり、かつて飛鳥時代に政治の中心地であった場所を指すと言う。 “散歩道《石舞台と飛鳥寺》片山通夫” の続きを読む