「樺太夢幻」009

樺太開拓の一環として、パルプ工場が石炭産業とともに多く造られた。
そして、現在もその工場跡が随所にみられる。写真は真岡(ホルムスク)の王子製紙真岡工場

王子製紙の歴史:王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社は、従来から競合しつつもしばしばカルテルを結んで協調行動をとっていた。1920年代末になると市況の悪化で、特に富士製紙・樺太工業の業績が悪化する。1929年(昭和4年)に王子製紙は富士製紙の株式を買収して筆頭株主となり、富士製紙の業績建て直しを支援するようになる。また、1930年頃から樺太工業側から王子製紙へ合同を打診していた。市況と各社の状況から、これ以上の消耗を回避し、なおかつ従来以上の市況統制として3社の合同が構想され、巨大トラストである「大王子製紙」発足へと至ったのである。(ウキペディア)

 

「樺太夢幻」008-2

 

内淵炭鉱の前を内淵川が流れる。今はナイバ川とその名を変えた。内淵の意味はアイヌの言葉で「ナイ・プチ」と言って河口を意味する。

 

「樺太夢幻」008

豊原(ユジノサハリンスク)から大谷(ソコル)を過ぎて北へ行くと落合(ドリンスク)という町に出る。そして落合から左へ、つまり西のほうへ進むと内淵(ブイコフ)という炭鉱がある。ここは樺太時代には帝国燃料興業が開発した炭鉱だった。帝国燃料興業は樺太人造石油を合併し、樺太内淵に工場を建設し内淵石炭を用いて直接液化を行なった。

人造石油:石油原油以外の原料からつくられた石油の類似物。石炭の低温乾留、石炭と水素の高温・高圧反応などの製法がある。石油資源不足の際に製造された合成石油をいう。

 

「樺太夢幻」007

豊原(ユジノサハリンスク)と真岡(ホルムスク)を結ぶ道路沿いにある真岡郡清水村瑞穂 (ホルムスク市管区(ロシア語)パジャルスコエ(ロシア語)の神社跡にあった。またこの瑞穂で虐殺事件が起こったことでも知られている。

事件は日本の敗戦時、すなわち1945年8月11日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太への侵攻を開始した(樺太の戦い)。敷香町北部では国境を越えてきたソ連軍と日本軍(大日本帝国軍のこと。以降も同様)との戦闘が、日本(大日本帝国のこと。以降も同様)のポツダム宣言受諾後の8月15日以降も続いていた。ロシアに残る資料によると、日本人たちは、呼び出した一人の朝鮮人をまず惨殺し、さらに朝鮮人を皆殺しにする計画を立て、翌日、三人を殺害し、ますます凶暴になって、朝鮮人が住む住居を襲った。日本人の細川博が後のソ連軍の裁判で行った証言記録によると、逃げて出てきた朝鮮人をサーベルでたたき切り、仲間とともに女子供も同じように殺した。こうして朝鮮人27人が虐殺された。

以下の写真説明(上)虐殺事件のKGB調書コピー
(下)犯人の一人細川博の調書へのサイン

「樺太夢幻」006

明治政府は樺太開拓に北海道拓殖銀行を起用した。左の写真は今はサハリン州立美術館の「北海道拓殖銀行豊原支店」と、右の「大泊支店」。いずれも頑丈な石造である。大泊支店は現在利用されていない。

「樺太夢幻」005

白浦という集落があった。
樺太の最も狭い(南北に短い)部分にこの集落はあった。
そして白浦はオホーツク海に面していた。ここから西へ行くと久春内という日本海側に面した街に出るバスが通っていた。そんな白浦には今も翩翻と白浦神社の鳥居が山の中腹に残っている。

 

「樺太夢幻」004


樺太は島である。だから船で渡った。稚内から大泊まで連絡船で8時間。稚泊連絡船である。この連絡船で宮沢賢治岡田嘉子も樺太へ渡った。そして敗戦の時はこの港に人々は逃れるために殺到したという。

「樺太夢幻」003

樺太庁博物館は1937年8月1日に樺太の豊原で開設された博物館である。1896年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーで創立した旧博物館の所蔵資料を引き継いでいて、前頁の国境境界標や樺太の動植物、鉱物、民俗、考古学などの資料が展示・収蔵されている。
無論建物も樺太時代のものである。

新連載「樺太夢幻」002

この日露戦争の結果、全島がロシア領だったサハリンは、樺太と名を変えて、島の南半分、つまり、ほぼ島の真ん中を通る北緯50度線を国境として、日本が統治した。
写真の国境境界標はユジノサハリンスクにあるサハリン州立博物館に収納されている。
当たり前のことだが、裏側はソ連(ロシア)側となる。