現代時評【安青錦に「大鵬二世の期待」】井上脩身

 大相撲九州場所で初優勝したウクライナ出身の安青錦が大関になった。11月26日に開かれた日本相撲協会の理事会で正式に決定したもので、初土俵から14場所での大関昇進は年6場所が定着した1958年以降、最速記録である。このニュースに、わたしは20年前の秋、駐ウクライナ日本大使の公邸を訪ねたときのことを思い出した。公邸に昭和の大横綱・大鵬の写真が掛けられていて、大使は「大鵬のお父さんはウクライナ出身。だから相撲も人気がある」と語った。安青錦はその大鵬を彷彿とさせる超スピード出世を果たしたのだ。それだけではない。ともに戦争が影を落としているのである。戦後80年。不思議な縁というほかない。

 2005年10月、ウクライナの首都・キーウの国立博物館で書道展が開かれ、日本の書家約100人の作品が展示された。私はこの展覧会の企画、運営に携わり、半年間に3回、キーウを訪れた。前年、ロシア寄り政権を倒して、親ヨーロッパ派のユシチェンコ前首相を復活させたオレンジ革命の余波が街に色濃く漂っていて、オレンジ色の旗を振る若者たちが大通りを闊歩していた。こうした熱っぽい空気のなか、展覧会は駐ウクライナ大使の協力を得て、多大な成果を得たのであった。大鵬の写真を示した大使であったが、この1年半前にウクライナ中部のヴィーンヌィツャ市で産声を上げたダローニ・ヤブグシシンという赤ん坊が後に大関になろうとは、知るよしもない。

 大使が口にした「大鵬のお父さん」であるマルキャン・ボリシコ。1885年か1888年にウクライナ東部ハリコフ州のルノフシナ村に生まれた。ハリコフ州はウクライナ戦争の激戦地・ドンバス地方の北にあり、ロシア軍の猛攻を受けた所だが、この140年近くも前に生まれたボリシコにはもちろん何の関係もない。ボリシコはウィキペディアによると、ロシア帝国の極東移住の呼びかけに応じ、農民の両親とともにサハリンに入植。1925年、単身で日本治世下の南樺太の大泊(コルサコフ)に移った。1928年、納谷キヨと結し、1940年、南樺太北部の敷香町で幸喜が生まれた。後の大鵬である。
 太平洋戦争末期の1945年8月、ソ連軍が南樺太に侵攻、敷香町も戦禍に巻きこまれた。幸喜の母親は北海道東部に引き揚げることにし、幸喜を連れて引き揚げ船・小笠原丸に乗り込んだ。母親は同船で小樽に向かうつもりだったが、宗谷海峡で体調が悪化、やむなく稚内で下船した。小笠原丸は稚内から小樽に向かう途中の留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。乗っていた638人中生存したのは61人に過ぎなかった。幸喜の母が体調を崩さなかったら、昭和の大横綱は生まれなかったであろう。引き揚げの母子家庭の生活は厳しく、幸喜は納豆を売り歩いて家計を支えたという。
 幸喜が弟子屈高校定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていた1956年、大相撲の二所ノ関部屋一門が巡業に来たのがきっかけで入門。同年9月、初土俵を踏み、1960年1月場所で新入幕。7月場所で小結、9月場所で関脇、つづく11月場所では13勝2敗の好成績で初優勝して大関へと、三段飛びの昇進を果たした。

 さて、後に安青錦になるダローニ少年。わずか7歳から相撲をはじめたのは、大鵬の父親の祖国ならではの風土の影響であろうか。生まれ育ったヴィーンヌィツャ市は、1917年にロシア革命が起きるとソビエト・ウクライナ戦争の戦場になり、ウクライナ人の1割が犠牲になった所。1937年から38年にかけてのソ連の大粛清時代には「ヴィーンヌィツャ虐殺」といわれるむごたらしい事件が起き、1万人近くの市民が殺されたとされる。そんな暗い歴史をもつヴィーンヌィツャ市であるが、運動神経が抜群のダローニは着実に力をつけ、世界ジュニア相撲選手権大会で3位に入った。
だが、平和は突然破られる。ロシアのプーチン大統領2022年2月、ウクライナに戦争をしかけた。ヴィーンヌィツャ市でもミサイル攻撃を受けて27人が死亡、80人が負傷した。ダローニは戦争が起きて2カ月後の2022年4月に来日し、ジュニア選手権で知り合った関西大相撲部主将を訪問。同大や報徳学園中・高校の相撲部でけいこができるよう、便宜が図られた。さらに報徳学園監督の紹介で元関脇・安美錦が親方を務める安治川部屋の研修生になり、2023年、同部屋に正式入門、しこ名を安青錦とした。青はウクライナの国旗の青である。

 安青錦は2023年9月場所で初土俵。その後の活躍は目ざましく、1年半後の2025年3月場所で新入幕。7月場所で小結、9月場所で関脇、そして11月場所では12勝3敗として横綱・豊昇龍と並び、優勝決定戦で豊昇龍を降して初優勝し、大関昇進を決めた。大鵬同様の三段飛び大関である。
 大鵬が大関になったのは新入幕から6場所を経てのこと。安青錦は5場所で大関になっており、一場所早い昇進だ。昇進時の年齢は大鵬20歳5カ月、安青錦は21歳8カ月。初土俵時の年齢が大鵬の方が若かったので、大関昇進時の年齢も大鵬の方が1歳余り若いが、新入幕以降の出世スピードは安青錦がわずかにまさっている。総合すると、安青錦は大鵬と肩を並べる、大相撲の若手エース、と評価できそうだ。
大鵬が小結、関脇、大関へと駆け上がったとき、わたしは高校1年生だった。新しいヒーローの誕生に目を見張り、学校から家に帰るなりテレビにかじりついたものだ。小結、関脇、大関と一気に階段を上がった安青錦。その実績をみると、「大鵬二世
といっても過言ではあるまい。
 大鵬は大関になって5場所後の1061年9月場所で横綱昇進を決め、引退する1971年5月場所まで、32回、優勝。ちょうど高度経済成長期であったことから「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語にもなった。安青錦が大鵬のような大記録を生み出せるはまだわからないが、わたしは8割以上の確立で横綱になるとみている。大横綱になれるかどうかは、3連敗し、まだ一度も勝っていない横綱・大の里と互角にわたり合えるかにかかっていよう。大鵬のライバルが柏戸であったように、安青錦にとって大の里が最大のライバルになるにちがいない。

 安青錦の大関昇進が決またとき、テレビではウクライナの市民の喜びの表情を映しだしていた。ロシアの攻撃におびえるなか、勇気を与えてくれたというのだ。アメリカのトランプ大統領がウクライナ戦争の停戦と和平に乗り出していると報道されている。だが、移り気のトランプ大統領のことだ。彼の言を素直に受け取ることはできず、ウクライナの平和への道筋はまだ見通せない。
 報道によると、安青錦は優勝後、母親に電話。「お母さんは泣いていた」という。ウクライナに平和が戻って、里帰りした横綱・安青錦がお母さんに晴れ姿を見せられる日がくることを、わたしは切に願う。