現代時評[写真よもやま話]片山通夫 251125掲載

写真はゲージツだとは言わない。昔写真仲間でよく出た話がある。当時リアリズムの土門拳氏やライカ使いの名手であった木村伊兵衛氏の全盛でカメラ雑誌には必ずと言っていいほどお二人の写真がグラビアページを飾っていた。我々が下世話で話していたことは「彼ら巨匠の使っているカメラやフィルムなど全く同じ機材で同じようにとれば同じ写真がとれるはずだ」という命題に関して、口角泡を飛ばして「論じた」ものだった。
結論は覚えていない。しかし今になって考えるに、その例えば土門氏の「筑豊の子供たち」や木村伊兵衛氏の「街角」ようなテーマで撮り続ける姿勢は我々には、いや少なくともボクにはなかった。例えば筑豊炭鉱の炭住に入り込んで撮る、もしくは下町の街角を日ごとさまよい歩いて撮影するという姿勢は持ちあわせていなかった。いわばもっとせっかちだったのだ。

ただ当時はまだモノクロームの世界だったので、フィルムはコダック社のTRI-Xがいいとか、富士フィルムのネオパンSSSは粒子が荒くってとか聞いた風なことばかりに気を使っていた覚えがある。そんな時代があって、ボクは報道写真の世界にのめりこんだ。それには大きな理由があった。親のすねをかじっていた時代のこと。ボクは夏に中国へ旅する機会を得た。詳しくは長くなるので書かないが当然グループ旅行だった。当時はまだ中国とは国交は結ばれていなかったので、香港経由で列車で入国した。簡単に言うと上海で「文化大革命」に遭遇、泊まっていたホテルの名前が朝には平和飯店から革命飯店に変わっていた。紙に墨で書かれた新しい革命飯店。つまりそれまでの常識が覆されて価値観の根底から崩れたのだ。そこでとった写真は香港に帰ってくると「飛ぶように」売れた。つまりその時からボクは「誰も撮ったことのない写真」は売れると知った。まるで「トレジャーハンター」のようにネタ探しに夢中になっていた時期があった。しかしそんなにうまい話が転がっているわけではないのでボクは地道に働きだした。それが1969年のキューバ行きであり、通信社で働く機会も得て「まじめな」写真を撮るようになった。

カメラはなぜかNIKONを使うのが多かった。最初はレンジファインダーだったが。