連載コラム・日本の島できごと事典 その179《ベトナム難民》渡辺幸重

ボートピープルが乗った難民船(「SocialActCareer」サイトより)

美良島(びりょうじま)は五島列島の北に連なる小値賀島(おぢかじま)の西約13kmにある面積約0.4平方キロメートルの小さな無人島です。ベトナム戦争直後の1978(昭和53)年8月21日、この島に小型木造船が漂着しました。老朽化した木造漁船にはベトナムを脱出したベトナム難民12人(11人とする報道もあり)の男女が乗っていました。これが「日本で初めて公式に確認されたベトナム難民の漂着」といわれています。船に乗って漂着する難民は“ボートピープル”と呼ばれ、その後も日本列島への漂着が続きました。美良島への最初の漂着は日本政府に「インドシナ難民受け入れ」と難民条約(難民の地位に関する条約・議定書)加盟を迫るきっかけとなりました。

ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)は、1955(同30)年11月から1975(同50)年4月にかけて社会主義を掲げる北ベトナムとアメリカが支援する南ベトナムが戦い、北ベトナムが勝利してベトナムを統一した戦争で、米軍の激しい北爆やソンミ村虐殺事件、枯れ葉作戦そして世界中に広がった反戦運動などで有名です。ベトナム戦争終結前後にベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国が社会主義体制に移行したことから大量の難民が国外に脱出するようになり、総称してインドシナ難民と呼ばれました。ベトナム難民もインドシナ難民に含まれます。

美良島に漂着した難民船内は過密状態で、燃料・食料・水はほぼ尽き、体調不良者もいたといわれます。船はベトナム南部を出航し、南シナ海を経て日本近海にたどり着き、地元漁船が発見し、海上保安庁が救助しました。当時の日本は難民条約に加盟しておらず、12人は「不法入国者」になりますが、日本政府は国際世論に配慮して強制送還はせずUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を通じてアメリカ合衆国に定住させることにしました。その後インドシナ難民問題への国内世論が高まり、それに押される形で日本政府は1981(同56)年10月に難民条約に加盟したあと翌年1月1日に難民議定書にも加盟して難民条約が発効しました。1980(同55)年から2005(平成17)年まで日本国内に定住したインドシナ難民は3,500人以上のボートピープルを含めて1万1,000人以上に達したそうです。

美良島以外の島にもボートピープルは漂着しました。琉球弧(南西諸島)から九州西方の島々の場合が多く、沖縄県の石垣島(1979年)、宮古島(1980年)、久米島(1982年)、鹿児島県の奄美大島(1979年)、与論島(同)、徳之島(1981年)、長崎県の五島列島(1980年)などの例があります。
なお、美良島には1989(平成元)年5月29日にも107人を乗せた25トン未満の木造船が漂着し「ベトナム難民の船」と報道されましたが、実際には「中国人の偽装難民」によるものとわかりました。1982(昭和57)年以降は経済移民や偽装難民が増加しています。

私が解説編を担当した『新版 日本の島事典』(三交社)の「美良島」の項に以下のような間違いがあったのでここでお詫びして訂正します。
<誤>1989(平成元)年5月に日本で初めてベトナム難民(ボートピープル)107人を乗せた25トン足らずの木造船が漂着したことでも知られる。
<正>1978(昭和53)年8月21日に日本で初めてベトナム難民(ボートピープル)12人を乗せた木造船が漂着したことでも知られる。なお、1989(平成元)年5月29日にもこの島に107人を乗せた小型木造船が漂着し、当初ベトナム難民の船と報道されたが、のちにほぼ全員中国人の偽装難民と判明した。