連載コラム・日本の島できごと事典 その177《朝鮮通信使》渡辺幸重

朝鮮通信使の船団

約3,000キロメートル

朝鮮通信使は足利・豊臣・徳川の武家政権に対して朝鮮国王が書契(国書)および礼単(進物)をもたらすため派遣した外交使節団のことで、通信使とは「信(よしみ)を通わす使節」すなわち「お互いに信頼関係を深めあう使節」という意味です。1375(永和元)年に足利義満が日本国王使を派遣、それに対応して高麗王朝が通信使を派遣したのが始まりで、安土桃山時代以降は李氏朝鮮からの派遣に変わりました。

江戸時代には1607(慶長12)年から1811(文化8)年までの12回、李氏朝鮮から朝鮮通信使が日本へ派遣されました。狭義には朝鮮通信使というと江戸時代のものを指します。対馬止めになった第12回を除き、対馬から江戸まで約3,000kmの長い行程の途中では各地域で文化交流が行われ、鎖国制度の中で外の世界に目を開く貴重な機会になったようです。対馬から大阪までの海路では玄界灘や瀬戸内海の島々が大きな役割を果たしました。

朝鮮通信使行程図

江戸時代の朝鮮通信使の一行は300~500人という大集団で、朝鮮半島と九州島の間の対馬(つしま:長崎県)、壱岐(いき:同)、相島(あいのしま:福岡県)を経て下関から瀬戸内海に入り、大坂まで航海、淀川を遡ったあとは陸路で江戸に至りました。第9回(1719年)では対馬から大坂までの45日を含め江戸に着くまで69日かかっており、往復を含めた全行程には半年以上の時間を要したといわれています。

瀬戸内海では対馬藩や西国大名の護送船を加えた大船団だったようで、潮待ち・風待ちをした島嶼には長島(ながしま:山口県上関)、津和地島(つわじしま:愛媛県)、下蒲刈島(しもかまがりじま:広島県)などがあります。

朝鮮との外交交渉や貿易の窓口は対馬藩の役割で、朝鮮通信使の来訪は、幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮へ使者を派遣することから始まりました。豊臣秀吉の朝鮮侵攻によって断絶した日本と朝鮮の国交回復を仲介したのも対馬藩です。対馬にとって朝鮮と友好関係を保つことは島の存亡に関わることなので必死でした。そこで起きたのが「柳川一件(やながわいっけん)」という対馬藩による国書偽造事件です。

これは1605(慶長10)年に江戸幕府側から先に国書を送るように要求してきた朝鮮側に対して対馬藩が偽造した国書を提出したというものです。これによって通信使(朝鮮側にとっては“回答使”)の派遣が実現しました。対馬藩は回答使の返書も改ざんし、その後2度も日朝交渉の中で国書を偽造・改ざんしています。対馬藩の必死の交渉によって1609(慶長14)年には対馬藩と李氏朝鮮との間で貿易協定である己酉約条(きゆうやくじょう:慶長条約)が締結されました。

国書偽造事件は対馬藩家老・柳川調興の訴えによって幕府に知られ、国書改ざんに関わったとして外交交渉担当の規伯玄方(きはくげんぼう)が盛岡藩に流されました。不思議なことに柳川も弘前藩に配流となり、逆に藩主・宗義成は無罪でした。幕府にとって日朝交渉から対馬藩をはずせない事情があったようです。

2017(平成29)年に日韓両国の朝鮮通信使に関する外交・旅程・文化交流の記録が「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」としてユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

写真:花咲く海の町 山口県上関町より    https://x.gd/VCkwA