散歩道《石舞台と飛鳥寺》片山通夫

曽我馬子の墳墓かと思われる石舞台

明日香村(あすかむら)と飛鳥(あすか)は、どちらも奈良県高市郡に属する地名だが、厳密には意味が異なるらしい。明日香村は、高市郡の旧飛鳥村、旧高市村、旧阪合村が合併してできた村の名前で、一方、飛鳥は明日香村の中の大字(おおあざ)の一つであり、かつて飛鳥時代に政治の中心地であった場所を指すと言う。

ボクは明日香村によくゆく。そこで古代の日本の息吹を感じるのだ。特に石舞台や蘇我入鹿首塚と言ったごくポピュラーな石造物に魅せられる。石舞台はあれだけ大きい石なのに、誰の墳墓なのかわからないらしい。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈している。また天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれる。相当の権力者の墳墓らしい。

一説には被葬者は7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかと推察されているが、これは定かではない。
一方蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿の首塚がこの石舞台から約1.5㎞の飛鳥寺にある。飛鳥寺は6世紀末から7世紀初めに、馬子ので建てられた日本最古の本格的仏教寺院であり、板葺の宮で起こった蘇我入鹿暗殺事件で大化改新の舞台であり、暗殺現場(板葺の宮)から数百メートル離れた飛鳥寺まで入鹿のはねられた首が飛んだという。

飛鳥寺は入鹿の祖父である馬子の発願で建てられた最古の本格仏教寺院。その寺まで政変で孫の入鹿の首が飛ぶというのは、いささかどころでない妖しい話だ。
ボクはこのような伝説が真贋織り交ぜて語られる飛鳥の石舞台をはじめとする石造物に強い想像をかきたてられる。

飛鳥寺を見てみよう。さきに述べたように創建は推古4年(596年)。仏教を保護した蘇我馬子の発願で日本初の本格的寺院として完成した。三金堂が塔を囲む大寺で、法興寺 元興寺とも呼ばれたが、和銅3年(710年}に第43代元明天皇によって、それまでの都である藤原京から平城京(現在の奈良市西部)に都が移されたに伴い奈良の地に新たに元興寺が建立されて以後は、本元興寺と呼ばれた。元明天皇は天智天皇の皇女で、草壁皇子の妃となり、文武天皇と元正天皇を産んだ、707年に即位した女性天皇である。

鎌倉時代に伽藍の大半を焼失。現在の本堂は江戸時代に再建されたもの。本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像と言われていて、飛鳥大仏の名で親しまれる。寺の西側には蘇我入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔が残っている。

境内に山部赤人の歌碑があり
「みもろの 神奈備山に 五百枝さし しじに生ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづはさわく 見るごとに 音のみし泣かゆ 古思へば」
反歌「明日香川 川淀去らず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに」。

まさか入鹿の首が板葺の宮から飛鳥寺の西まで飛んだとは思えないが、討った側の 中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが中心となって行ったが、飛鳥寺にこもって反撃に備えたと言われている。

こんな血なまぐさい話はともかく大化の改新の舞台と言うのが興味深い。