連載コラム・日本の島できごと事典 その172《引揚者》渡辺幸重

浦頭に引き揚げてきた人たち(佐世保市提供:西日本新聞より)

1931(昭和6)年の満州事変から日中戦争、第二次世界大戦までの15年戦争の中でいわゆる「外地」に進出していた人々は1945(同20)年8月の日本の敗戦後、命からがら「内地」に帰ってきました。外地に残された日本人約660万人は日本へ強制帰国(引き揚げ)されることに、大日本帝國軍の軍人・軍属は武装解除の上で民間社会に復帰させる(復員)ことになったのです。 外地とは南方諸島(ミクロネシア)や台湾、朝鮮、満州(中国東北部)などを言い、そこから帰還する人たちは、民間人の場合は引揚者(ひきあげしゃ)、軍人の場合は復員兵と呼ばれました。

引揚者・復員兵が上陸した港は、博多港、佐世保港、舞鶴港、浦賀港、仙崎港、大竹港、鹿児島港、函館港などで、これらの港には地方引揚援護局が1945(同20)年11月に設置され、軍人・軍属の復員、民間人の受入援護、在日外国人の送出などを担当しました。

佐世保(させぼ)引揚援護局(長崎県佐世保市)は佐世保港の一角を占める針尾島(はりおじま)の浦頭(うらがしら)港に設けられました。針尾島は佐世保湾と大村湾に挟まれ、北東部は幅10~200m・長さ約11kmの早岐(はいき)瀬戸、南西部は最狭部200mの針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)を境にして九州島に取り囲まれています。浦頭港は佐世保港の南東約4.5kmに位置し、島の西側にあります。

佐世保引揚援護局は1950(同25)年にその役割を終えました。戦後の引揚者は約629万人と言われますが、浦頭には139万6,468人が上陸しましたこれは博多港に次いで2番目に多い数です。。内訳は一般民間人75万8,879人、陸軍61万3,411人、海軍2万4,178人となっています。

引揚者は、検疫所で検疫を受けた後約7kmの山道を歩き、引揚援護局本所で引揚手続きを終え、衣服や日用品の支給を受けて数日間収容所で仮住まいをし、国鉄大村線南風崎(はえのさき)駅から帰郷していきました。

無事に帰国できず遺体や遺骨になって戻ってきた人も多く、なかには上陸後に力尽きた人もいました。島内にある釜墓地には1949(同24)年に引揚船「ぼごた丸」でフィリピンなどの収容所から帰還した軍人軍属の遺体4,515体、遺骨307柱を含め計6,500余柱の人が眠っており、今でも「佐世保釜墓地戦歿者追悼式」が催されています。

1986年(同61年)5月、浦頭港を見下ろす丘に浦頭引揚記念平和公園が造成され、同時に園内に浦頭引揚記念資料館が開館しました。

ちなみに現在は針尾島でハウステンボスが営業され、引揚者に代わって観光客でにぎわっています。