はじめに・・・。
岡山は「晴れの国」と言う。なんでも1989年(平成元年)から岡山県のトータルイメージを表現する言葉として、広報活動をはじめ幅広く使っているようだ。
ではなぜ「晴れの国」なのかと言うと、
その1 晴れの日が多い。
その2 温暖な気候。災害が少ない。
その3 美味しいものが多い。
その4 自然がいっぱい。 が理由だと言われている。
筆者などは、桃から生まれた桃太郎を思い浮かべる程度の知識しかなかった。「ン?桃太郎が先か桃が先か?」それに岡山は横溝正史の推理小説の舞台となっている。例の探偵・金田一耕助が大活躍するあれだ。筆者も大ファンで、とりわけ獄門島、犬神家の一族それに本陣殺人事件や八つ墓村など、いわゆる岡山を舞台にした初期の作品が好きだ。
歴史を感じて
また出雲の国との交流があり出雲街道が通っている。古代は「たたら製鉄」をめぐった道、後鳥羽上皇や後醍醐天皇の隠岐の島配流の道であり、江戸時代には参勤交代で使われ、庶民の出雲大社への参拝の道だった。その出雲街道は出雲から岡山を通って姫路までである。昔と言えば岡山藩主は代々池田家だったようで、閑谷(しずたに)学校や岡山城などとても文化的な家系だったようだ。
そんな岡山には筆者の知り合い夫婦が脱サラして移り住みブドウの栽培している。やはり晴れの国の果物だ。
一方、瀬戸内海に面しているので、海の幸も豊かだ。外海に面していないため周年波が穏やかであり、河川からの栄養素に恵まれているため養殖に適した環境だと言われている。また瀬戸内海の東西の距離は550キロメートルほどでその中に岡山の海も含まれる。そして岡山県と香川県に挟まれた、東は播磨灘(はりまなだ)、西は燧灘(ひうちなだ)の間に位置する東西約60キロメートル、南北約10キロメートルの非常に狭い海域のことを「備讃瀬戸」と称する。
岡山駅からJRで瀬戸大橋を渡って対面の香川県高松まで快速電車で約55分で結んでいる。瀬戸大橋のおかげで四国が近くなった半面「下津井」のように取り残された港町も生まれた。下津井は江戸時代は北前船の寄港地として栄えた港町だった。
児島のデニム
下津井地区は岡山県倉敷市の児島半島の西南端にあたる地区で、瀬戸内海沿岸の丘陵地のため平地は少ない。児島はその昔は名の通り島だったところを埋め立てられ、現在のような形態になった。ただ塩分を多く含む土壌で水田、畑作には向かなく、綿花の栽培を行った。比較的綿花は塩害に強いそうである。それでも肥料は必要とするので、北前船によってもたらされる北海道のニシン粕が肥料として重要だった。結果、綿花の栽培は成功をおさめ、綿を用いる繊維産業が興こり小倉織や真田紐づくりが発達した。こうした繊維産業を基盤として、明治・大正時代にかけて、足袋さらに学生服の産地に成長し、これが昭和40年代以降のデニム・ジーンズ産業の集積地の形成に繋がり、現在の「児島のデニム」が生まれた。
大正ロマンの花開く文化
こうした「晴れの国・岡山」はさきに述べた文化が花開く町でもあった。岡山の東には日本六古窯の一つ備前焼、1670年(寛文10年)、岡山藩主池田光政公が日本ではじめてとなる「庶民のための閑谷学校」を創建し、明治、大正、昭和とさまざまな時代と分野で、現在の日本の歴史をかたち作る有能なリーダー達を輩出してきた。
また備中高梁には、ベンガラで有名な吹屋地区の吹屋小学校が挙げられる。ベンガラはインドのベンガル辺りから酸化鉄を主成分とした赤色の顔料として伝わった。古くから絵の具や建物の塗装に使用されており、防虫、防腐作用があることから、木造建築の伝統的なベンガラ塗りに使われてきた。現在では、オーガニック製品や繊維製品の染色にも使われるようになり、無害有名なところでは高松塚古墳の壁画にも使われ、経年変化に強いことから、天然素材としての注目も高まっている。
どうも話がそれる。吹屋小学校だが1900年(明治33年)に東西校舎、続いて1909年(明治42年)に本館が建築され、2012年(平成24年)の閉校まで「現役最古の木造校舎」として使用されました。当時の吹屋は、吉岡銅山とベンガラの生産で繁栄しており、1918年(大正7年)には最大369名の生徒が在籍していた。岡山にはほかにも真庭市の1907年建築のルネッサンス風校舎・旧遷喬(せんきょう)尋常小学校がある。この優美にして複雑な構造の建物に、当時の県民の教育への意気込みが感じられる。
画家で詩人の竹久夢二はあまりにも有名だが、版画家の巨匠棟方志向は出身こそ青森県だが、岡山をこよなく愛した。岡山の倉敷国際ホテルには大板壁画(だいはんへきが)「大世界の柵・坤(こん)」副題「人類より神々へ」は、棟方志功が手掛けた作品の中でもっとも大きく、木版画としては世界最大の大作(幅12.84m・高さ1.75m)が飾られている。またこの作品は、作品はベートーベンの第九、情熱、皇帝等の韻律を裸体の中に響かせ、神々の芸術への讃歌を版画化したと言われていて、ピカソの「ゲルニカ」を見た感動をモチーフに作ったとも言われているという。
話を古代の歴史に戻す。
岡山は古代の吉備国に属し、律令制以前は独立的な勢力を持つ国の一つだった。しかし、律令制の確立に伴い、備前国、備中国、備後国、美作国の4国に分割され、岡山はこれらの国々の一部に属するようになった。
また岡山藩は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩であった。備前岡山藩、備前藩とも呼ばれる。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現・岡山県岡山市北区)にあり、ほとんどの期間を池田氏が治めた。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。津山藩は美作国の大半を領有していた。
当初、藩主は美作国は備前岡山藩主小早川秀秋が領していたが嗣子の死去により廃絶となり、慶長8年(1603年)、信濃川中島藩より森可成の子忠政が美作一国18万6500石で入部し、津山藩となった。ついでながら津山は出雲街道が通っている。出雲から因州(鳥取)そして美作を経て姫路に向かう街道である。
横溝正史という記号
戦後間もないころ、横溝正史と言う作家が、戦災を避けるために岡山県に疎開した時期があった。そこで生まれたのが彼の作品、本陣殺人事件(1946年)、獄門島(1947年)、八つ墓村(1949年)、犬神家の一族(1950年)などと言う、おどろおどろしい推理小説群だった。彼の書く推理小説は岡山県の山村や瀬戸内海に浮かぶ小島を舞台にした戦前からの因習が絡む戦後の世界が主だった。人間の愛憎、物欲などが描かれた小説は人々に強烈な印象を与えた。筆者などは先に挙げた小説以外はあまり評価できないという生意気な分際だ。いずれにしろ大阪や神戸から岡山を通って、鳥取や島根に向かう途中の中国山中は、現代でこそ高速道路も通って、列車も東京から「サンライズ出雲」という特急電車が岡山経由で通っているが、戦中、戦後間もない時期はまさに「横溝正史の世界」を想像できるわけである。
岡山藩主池田光政公
一方江戸時代初期の岡山藩には名君がいた。岡山藩主池田光政公が開設した330年余りの歴史を誇る日本最古の庶民のための学校がある。誤解しないで置きたいが、藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校は別途ある。池田光政公が名君だったから出来た仕事だった。ついでながら本校の屋根は備前瓦だそうで、300年の歴史を今に見る思いだと言う。 https://x.gd/yxVD3