最後の稚内行連絡船

サハリンの南半分は戦前日本の領土だった。行政は樺太庁という役所をおいて納めていた。樺太には日本人のほかに朝鮮人も多くいた。北海道新聞の調査によるとおよそ6万人だったらしいが、例によって日本はそんなに朝鮮から行っていないと、この数値が多すぎると問題化した。ただソ連と戦争になった時に、誰が命令したのか、行政府が持っている資料など重要な書類の多くを焼却処分にしたらしい。これでは正確な調査はできない。規模は違うが南京での虐殺事件も過少化しているのと同じ思考だと思う。
敗戦時の日本人の数は30万人ほどだったらしい。ソ連が攻めてくるというので、敗戦の前には女性や高齢者は樺太庁の計画で北海道へ疎開させた。
稚内ー大泊間の連絡船は最後まで人々を疎開させたという。ただ朝鮮人を除いてだが。樺太の朝鮮人たちは大泊港に近い大泊の町に移住してきた。次の帰国船に乗るために…。しかしもう帰国船が来ることはなかった。
「最後の稚内行連絡船」は、第二次世界大戦終結直後の1945年8月23日22時出航した。樺太からの緊急引き揚げの最終便として、宗谷丸が大泊港(樺太)から稚内港へ到着した便を指し、この航路(稚泊連絡船)自体も8月24日未明の到着を最後に、22年の歴史に幕を下ろした。この便は定員800名のところ約4700人が乗り込み、多くの人々が命がけで故郷樺太を脱出した、歴史的な引き揚げの象徴となっている。