現代時評[写真よもやま話ー3ー]片山通夫

大正時代のマタギ衆(ネットから)

岩手の山奥で言葉が通じなくて「露頭に迷いかけた」ボクはまず言葉の通じる(はずの)人を探すことにした。幸いにして小さな分教場を探し連れて行ってもらった。相手の村人も「学校の先生ならば」と気が付いてくれて小さな学校へ連れていてくれた。学校の先生は大学で勉強されているので「標準語」も話されていた。ボクの言葉も理解していただいた。当時は先生が宿直をされていた。まるで夏目漱石の「坊ちゃん」さながらに。つまりボクも「宿直先生」の相手をしてもらったわけだ。夏だったが夜は冷えて石炭だったか薪だったかのストーブにするめを載せて焼き、茶碗酒を呑ませてもらった。
話の詳細は忘れたが先生はここにはマタギはいないという話だった。彼らは山中では常に移動しているから、捕まらなとも聞いた。
つまりボクの目論見はあえなく霧散した。朝になってボクはお礼を言って・・・ボクはすごすごと帰途についた。わけだ。

かくしてボクはいちから計画を練りなおさざるを得なかった。めげないということはとても大事だ。帰りに東京で降りて以前から気になっていたキューバ共和国の文化セクションを訊ねた。大阪から東京へ出るのも経済的に大変だったので、ボクは「ついで」に立ち寄ったわけだ。文化部担当の参事官が直接応対してくれ、日本キューバ友好協会なる組織を紹介してくれて翌日その事務所へ行くことになった。東京で一泊!
以前から気になっていたホテルに泊まることにした。今はこのホテルはそれなりに歴史ある高級ホテルらしいが、当時ベトナム帰りや休暇中なのか、いささか殺気だった雰囲気があり、ホテルのバーといわずレストランといわず飲んだくれ米兵はがわんさかいた。その時はまだオキナワへは行ったことがなかったが、コザの十字路あたりは、このホテル並みだったのかもしれない。キューバ大使館へ行った帰りに米兵のたまり場のホテルに泊まることにボクは少しだけ「国際的」な思いを味わえた。キューバはご存じの通り、いわゆるキューバ危機というトラブルを抱えていたのでかなり興味があった。

岩手で失敗したのでこの町ではボクは慎重に行動した。呑んだくれ米兵に絡まれたりしないように十分注意したおかげで、無事に過ごせた。それほどホテル内は荒れていた。ボクはこのホテルでは荒れて飲んだくれていた米兵以外は見なかった。(まだまだ続く)

キューバ危機:1962年10月から11月にかけて、ソビエト連邦がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、アメリカ合衆国がカリブ海でキューバの海上臨検を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事のこと。

 

現代時評[写真よもやま話ー4ー]片山通夫

このコラムでは写真の話をしなければ・・・。