散歩道《近江の国・朽木村の伝説》片山通夫

思子淵神社

朽木村は滋賀県琵琶湖の西側にあった県下唯一の村だった。今は高島市朽木となっている。ここでは便宜上「村」と呼んでおこう。村を南北に突き通る道路は、俗に鯖街道と呼ばれている。その昔、若狭の国にあがった鯖を一塩して京の都に一晩かけて運んだためにこの街道はそう呼ばれている。余談ながら鯖街道と名のつく街道はほかにもある。やはり若狭から京へ鯖を運んだ街道である。一塩した鯖を一晩して京都につく頃にはいい塩梅になったとか。その朽木村は琵琶湖から一山超えた安曇川沿いにある。安曇川は「あどがわ」と読み、丹波高地と呼ばれる京都府北部の大原、鞍馬付近をその水源とし、延長58キロで琵琶湖にそそぐ。

その安曇川には「しこぶちさん」とい昔話が伝わっている。朽木村はその昔、都の造営や寺院の建立のための用材を伐り出す山林としての杣山(そまやま)があった。つまり今でいう林業が盛んだった。切り出した材木はこの安曇川で筏に組んで琵琶湖に流して運んだ。当然なことに安曇川流域の人々は、筏流しの無事を祈り、それをまもる神様である「シコブチさん」を祀って信仰した。シコブチ神社は川の流れが急な所や川の合流点に設けられた作業場の近くに立地していることが多く、現在も十数社点在している。また安曇川流域には河童(ガワタロウ)伝説が残っている。

の「ガワタロウ伝説」とはつぎのようなものである。

志古淵さんには、七人の男の子があり、時々、この子供たちを連れて、川下りをしていた。初めのうちは、一人ずつ丸木に乗せて川を下っていたが、それでは面倒なので、そのうちに、丸木をくくり合わせて筏を作り、みんないっしょに乗れるようにした。ある日、いつものように子供たちと筏を流していると、新畑川との合流点である川合の下流付近で、筏の先頭に乗って竿を握っていた長男の姿がフッと消えてしまった。志古淵さんは、「これは、ガワタロウの仕業に違いない」とにらんで、筏を解き、それで川に堰をし、下流の水を干してしまった。
すると、川の中に突き出ている大きな岩の下で、ガワタロウが、長男の乳のあたりをしっかりと抱きかかえて、うずくまっているのが見えた。
志古淵さんが「子供を返せ」というと、ガワタロウは「一度捕らえたものは返さない」というので、「年に三人だけ人の子をやるから、その子を返せ」というと、ガワタロウはしぶしぶ承知した。その時、志古淵さんは、今後、志古淵さんと同じような簑笠をつけ、ガマ(蒲)のハバキ(脚絆)を巻き、コブシの木の竿を持った筏乗りには手を出さないことをガワタロ?に約束させた。
この時、こういう取り決めがなされたので、その後も、安曇川筋では年に三人の水死人が出るが、志古淵さんと同じ姿をした筏乗りは無事だという。
なお、「志古淵神社」の古名は「思子淵神社」で、祭神は「斎部の神様」とも「筏の神様」ともいわれている。

参考 https://kappa-kyoto.net/contents/nazo/kyoto01.html