連載コラム・日本の島できごと事典 その183《真円真珠》渡辺幸重

 

眞圓眞珠發明者頌徳碑(「Tripadvisor」サイトより)

“真珠王”といえば御木本幸吉(1858-1954)。ミキモトパールを生み出した人で、(株)ミキモトの公式サイトには「創業者 御木本幸吉が、世界で初めて真珠の養殖に成功したのは1893年」と書かれています。一方、真珠養殖の発祥地とされる三重県英虞(あご)湾に浮かぶ賢島(かしこじま)の「眞圓眞珠發明者頌徳碑」には見瀬辰平・西川藤吉・御木本幸吉の3人の名が刻まれています。「真円真珠の発明者」が3人もいるのでしょうか。

御木本が1893(明治26)年に真珠養殖に成功したのは半円真珠の養殖でしたが、真珠養殖をめざした人たちの目的は「完全な球体による真珠(真円真珠)の養殖」でした。真円真珠の養殖は困難を極め、試行錯誤の結果、御木本は1905(同38)年に真円真珠の養殖に成功しました。1907(同40)年には特許を取得しています。

御木本と同じように真円真珠の養殖の研究を進めた人もいます。西川籐吉(1874-1909)は1907(同40)年に貝の外套膜の小片を母貝の体内に移植する方法を独自に発明し、1917(大正6)年に特許として認められました。また、見瀬辰平(1880-1924)は貝の上皮細胞の小片を小さな核に付着させたものを母貝の外套膜組織内に送り込む注射針を考案し、1907(明治40)年に特許を得ました。1920(大正9)年にも外套膜細胞を注射器で貝の体内に導く方法で特許を得ています。
御木本の方法は核として利用する貝の殻全体を外套膜で包んで母貝の内部に移植する方法で「全巻式」と呼ばれました。西川の方法は「ピース式」、見瀬の方法は「誘導式」と呼ばれます。いずれも外套膜を貝の内部に挿入する点は共通ですが、それぞれ異なるアプローチの方法によって真円真珠の養殖に成功したのです。
一般には真珠養殖法の発明者は御木本幸吉となっていますが、それぞれの方式ごとに発明者がいるので眞圓眞珠發明者頌徳碑では3名連記となったようです。それぞれの発明は同時期で実際にはどちらが先か判別が難しいのかもしれません。
なお、現在は作業効率に優れた西川の「ピース式」が養殖真珠の基本技術となっています。

御木本が世界で初めて半円真珠の養殖に成功した場所は志摩半島東部の鳥羽港内に浮かぶ相島(おじま)です。御木本は1928(昭和3)年に賢島港の南南西約0.7kmに位置する多徳島(旧・田徳島)に拠点を移して本格的に真珠養殖事業を始めました。5個の真円真珠を発見し、真円真珠養殖法に成功したのはこの島です。拠点は1919(大正8)年に本土側の大崎半島に移るまで多徳島に置かれ、島での養殖事業も1935(昭和10)年まで継続されました。
相島は現在では「ミキモト真珠島」という正式名称に変わり、真珠のすべてを展示・紹介する真珠博物館などを訪れる観光客でにぎわっています。