
第二次世界大戦における沖縄戦の激しさと悲惨さは語っても語りつくせぬほどですが生き残った人々も米軍統治下にあって悲しみと苦難の生活を強いられました。その中で生きることへの執着を支えたのが沖縄の芸能でした。ここでは私が強い印象を受けた二つのできごとを紹介します。

一つは打ちひしがれた人々の家を回って面白おかしく歌い踊って元気づけた“沖縄のチャップリン”こと小那覇舞天(おなは・ぶーてん:本名全孝)の活動であり、もう一つは比嘉恒敏(ひが・こうびん)が作詞作曲した沖縄民謡『艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽうぬくぇーぬくさー)』です。前者は、人々の反発を受けながら「ヌチヌグスージサビラ(命のお祝いをしよう)」と三線片手に人々の心に笑いを届ける信念に、後者は戦争で生き残った自分たちを「艦砲射撃の食い残し者」と自嘲しながらも残された者の責任として平和を求める覚悟に胸を打たれました。
米軍は1945(昭和20)年3月に慶良間列島に、4月に沖縄島に上陸して次々に占領地を拡大するなかで捕虜収容所と民間人収容所を設置して兵士と民間人を分けて収容していきました。沖縄島を12、その他の島を4つの収容地区(粟国島、伊平屋島、慶良間列島、久米島)に分け、ほぼすべての沖縄島周辺の住民を民間人収容所に集めました。焼け残った民家や家畜小屋、テントに大量の人が詰め込まれ、衛生状態もよくなかったようです。収容所の中で最大のものが旧石川市 (現うるま市石川)に設置された石川収容所でした。
小那覇舞天は本業の歯医者の治療が終わると弟子の照屋林助(てるりん)と石川収容所の掘っ立て小屋を一軒一軒回りました。空き缶とパラシュートの布・ひもなどで作ったカンカラサンシンを持ち、「生き残ったお祝いをしよう」と歌い出すと家族を戦争で亡くした人たちから強い反発を受けたそうです。それでも舞天は「死んだ人の分まで楽しく幸せに暮らそう」「歌ったり踊ったりしてこの沖縄を盛り上げていかないといけない」と慰問を続けたのです。やがて舞天たちの滑稽な姿に乗せられ、悲しみに打ちひしがれていた人々も一緒に踊り出すようになりました。
比嘉恒敏は第二次世界大戦で最初の家族を全員失いました。長男と父は学童疎開船「対馬丸」撃沈で、妻と次男は出稼ぎ先の大阪の大空襲で亡くしたのです。戦後再婚して7人の子宝に恵まれ、「でいご座」として家族で芸能活動をしていましたが、1973(昭和48)年10月、結婚式のステージを終えての帰路、乗っていたワゴン車が飲酒運転の米兵の大型乗用車に衝突され、4日後に亡くなりました。同乗の妻は即死だったそうです。
恒敏が4人の娘からなる民謡グループ「でいご娘」のために作詞作曲したのが『艦砲ぬ喰ぇー残さー』です。歌はYouTubeなどで実際に聴いてください。ここでは5番の歌詞だけ紹介しておきます。
5.我親喰ゎたる あの戦争
我島喰ゎたる あの艦砲
生りてぃ変わてぃん 忘らりゆみ
誰があの様 強いいんじゃちゃら
恨でん悔でん 飽きじゃらん
子孫末代 遺言さな
うんじゅん 我んにん いゃーん 我んにん 艦砲ぬ喰ぇー残さー
「でいご娘」は父の思いを引継ぎ、平和を訴えて今でもこの歌を歌い続けています。