石破茂首相は9月7日、記者会見で退任を表明した。7月20日の参院選で自民党が大敗した責めを問う「石破おろし」の風が吹くなか、続投の意欲をしめして抵抗した石破氏であったが、刀折れ矢尽きたのだ。2024年10月1日に首相に選任されて以来、わずか1年の短命政権におわった。さっそく「三木おろし」との類似点を探る論調がネット上にあらわれるなど、あいもかわらぬ自民党の内輪もめ体質に識者から冷たい目が向けられた。その石破氏と三木氏。実はわたしが出会ったことのあるただ二人の首相になった政治家である。わたしの印象にも、両氏に共通点があった。「なんともとっつきにくく、やりにくい人」なのである。だから仲間が少なかったのであろう。「数は力」の党内にあって、少数派は蹴散らされる運命にあったのである。
まずは両氏との出会いから。
鳥取の親しくしていた書家が自治大臣表彰を受け、鳥取市のホテルで開かれた祝賀会に招待されたのは2002年のことだった。わたしのテーブルはとんでもない特等席で、正面に平井伸治知事、右が石破氏の席だった。石破氏は小泉内閣の防衛庁長官として初入閣したばかり。多忙をきわめ、遅れて来るということで、代わって佳子夫人が座っていた。新聞社に長く勤めていたわたしの初任地は鳥取で、当時、石破氏の父・二朗氏が知事だった。というわけで、佳子夫人とは二朗氏についての思い出話で会話がはずんだ。
やがて石破氏本人が到着。佳子夫人が席をたち、石破氏がドッカと席についた。わたしが名刺をさしだすと、横目でジロッとわたしをにらんだ。その白目にどろっとした威力があり、わたしはおもわず身がすくみ、ついにひと言も交わさずじまい。ほどなく石破氏の支持者らがテーブルにやってきて、石破氏は次々に握手。そのようすを横から見あげていると、作り笑いをしている石破氏の目は硬いまま。笑顔になるのが苦手なのだとおもった。
三木氏を東京・南平台の私邸に訪ねたのは1985年の春だった。本四架橋・明石――鳴門ルートの大鳴門橋の完成を間近に控え、徳島出身の政治家としての思いを語ってもらうためであった。三木氏が1976年に首相を退いて9年がたっていたが、私邸の大きなホールの向こう端から姿を見せた三木氏は気迫がみなぎっていた。わたしのすぐ前の席についた三木氏はじっとわたしを見すえる。その眼光の強さにわたしはたじろぎ、体がコチコチになってしまった。
「淡路島と鳴門の間の橋の実現に、わたしはだれよりも力を注いだ」と三木氏は語りはじめた。だが、その口調はなめらかではなく、質問と答えがかみあわない。いま思えば、「後藤田のやろう」という苦々しさが三木氏の胸にあったのであろう。開通式では先頭の知事の車の次が中曽根内閣の閣僚だった後藤田正晴氏の車、三木氏の車はその後ろだったのである。
三木氏が首相になったのは1974年12月。信濃川河川敷の買収をめぐる田中ファミリー疑惑に端を発した田中金脈問題で第2次田中内閣が総辞職したあと、いわゆる椎名裁定で三木氏に白羽の矢がたったのであった。党内の最小派閥を率いながら、外務大臣などの要職に就き、「バルカン政治家」といわれた三木氏。すでに3回、総裁選に出馬していずれも敗北しており、総裁・総理の目はないとみられていたが、自民党への金権批判をかわすためには、「クリーン三木」を担ぎ出すしかなかったのである。
三木政権発足から1年余りたったころ、ロッキード事件が沸き起こった。ロッキード社の新型旅客機トライスターの受注をめぐる贈収賄事件で、田中前首相が賄賂として5億円を受け取ったなどとして1976年7月、逮捕されたのである。事件の解明のうえで三木首相に期待する声が少なくなかったが、党内では逆に逮捕を阻止しなかったとして三木氏に反発、田中派を中心に、「三木おろし」が巻き起こった。こうしたなか、同年12月、任期満了にともなう衆院選が行われ、自民党は当選249議席と、1955年の結党以来初めて過半数を割りこみ、三木氏は敗北の責任をとって退陣した。
石破氏が首相になったのは、三木退陣から49年後であった。十数人という小派閥(2024年9月に解散)のリーダーでもある石破氏は総裁選に4回挑み、そのつど安倍派を中心とする主流派にはねかえされてきた。2023年、政治資金パーティーにともなう安倍派の組織的裏金問題が発覚。政治とカネにまつわる自民党の体質に国民から厳しい目がそそがれるなか、2024年9月、総裁選が行われ、石破氏が決選投票で安倍派から支援を受けた高市早苗氏を破って勝利したのである。
国民は金権政治からの脱却を石破氏に期待した。だが首相就任間なしの10月に実施された衆院選では、公示前の247議席から191議席に激減。安倍派への遠慮からか、選択的夫婦別姓制度導入などの期待にそった政策を打ち出せず、新規政策としては防災庁設置を見すえた準備室を発足させた程度にとどまった。2025年に入って、トランプ大統領が求める相互関税の対応に追われるなかで行われた7月の参院選では改選52議席から39議席に大きく減らし、衆参ともに少数与党となった。参院選の結果が判明するとともに、旧安倍派を中心に石破氏の責任を追及する動きが活発化。党所属国会議員、自民党都道府県連の半数以上が「総裁の首すげ替え」を求めているとみられ、石破氏は続投を断念せざるをえなくなった。
前項でみたように、三木・石破両氏は似通った点が多々あることは確かだ。ともに小派閥、派閥解消を主張するなどの党内リベラル派、総裁選出馬回数多くかつすべて敗北、金権体質表面化後に得た総裁・総理の座。この裏がえしとして政権の座を失った主流派からの引きずりおろし運動、選挙で負けた責任のおしつけ。結局は政治とカネの問題で失った支持回復のためにやむなくかつぎあげた一時しのぎ総裁・総理に過ぎず、それでも選挙に勝てないとなると、よってたかってたたき落としにかかる、という構図である。自民党はこの50年、なんら変わっていないのである。
だが大きな違いがある。まず首相の政治家としての出自について。三木氏は戦時中に行われた翼賛選挙で、翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補した。いわば徒手空拳の出馬で当選した政治家だ。一方の石破氏は、鳥取県知事のあと参院議員になり自治大臣を務めた石破二朗氏の死後、衆院選に出馬した二世議員である。ともに若いときから政界で活躍しているが、三木氏がしたたかな保守政治家であるのに対し、石破氏は理論派保守政治家である。
自民党自体の容量と力量がまったく異なる。三木氏が総理・総裁を競ったころは三角大福中の時代であった。三木氏のほか田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曾根康弘各氏が派閥の領袖として権力闘争を繰り返していたが、それができるほどに自民党は巨大な政党だった。なによりも、当時、この国の経済力が上昇気流真っただ中。田中内閣が生まれた1972年、わが国のGDPは初めて200兆円を超え、中曽根内閣が終わる翌年の1988年には400兆円に達した。三角大福中の時代にGDPは2倍に膨らんだのだ。だれがなっても、経済は着実に右肩上がりをしたのである。
現在はどうか。1991年のバルブ崩壊後 、我が国のGDPは500兆円前後で推移、ほとんど上昇せず、今年、ドイツに抜かれて4位に後退、今年度中にもインドに抜かれるとみられている。経済力の衰えは当然のことながら自民党の衰えにつながり、連立を組む公明党を入れても衆参ともに少数与党となった。党の衰えと二世議員の増加は鶏と卵の関係であろう。結果として、政治家のレベルも低下した。10月4日に行われる臨時総裁選に立つ政治家が、いずれも三角大福中に比べると小物、との印象はぬぐえない。
もうひとつ、見落としてはならない違いがある。新党である。
三木氏が退任する半年前、河野洋平氏ら自民党の若手が「保守政治の刷新」をかかげて新自由クラブを結成、三木退任の原因となった衆院選で17人を当選させた。石破氏が敗北責任をとることになった今年の参院選では新興の参政党が14議席を得た。新自由クラブが政治倫理を重視した改革保守であるのに対し、参政党は天皇主体国家を目指す極右保守。保守新党の面からみると、この国が戦後保守から戦前保守へと逆回転していることがうかがえる。
三木おろしのときも、今回の石破おろしに際しても、「コップのなかの嵐」といわれた。だが、そのコップの大きさ、分厚さがまるでちがうのであるが、そのコップはアメリカというテーブルの上のコップである。そのテーブルが別物といっていいほど違うのである。
自民党が結党以来70年間、細川護熙政権(1993年8月~1994年4月)、民主党政権(2009年9月~2012年12月)を除いて政権の座につき続けてこられたのは、アメリカ一辺倒政策さえとっていれば無難に国のかじ取りができたからである。自由と民主主義を基調とするアメリカは西側陣営を守る超巨大国家である。したがって、自民党というコップを支えるテーブルは、頑強で確固たるものであった。政府はアメリカとの緊密な関係の維持につとめ続け、それが貿易にも反映、自動車をはじめアメリカへの輸出が拡大し、経済成長につながった。
アメリカへの信頼は、トランプ大統領の出現でグラグラッと揺るぎ出した。民主主義や人権に背を向ける大統領をアメリカ国民が選んだのは、アメリカの経済力に陰りが見えたからにほかならない。アメリカの経済成長率はここ10年、おおむね2%台で推移しているが、今年、1%台に落ちると予想されている。もしそうなればトランプ氏の求心力が著しく低下する。それをおそれて貿易赤字解消をもくろみ、わが国をはじめ各国に高い相互関税を求めるのだ。恐喝にちかい強引な手法で自由主義陣営の各国に対しても要求をのませるトランプ氏にとって、自由も民主主義も人権も、何ら価値のないものなのであろう。自由と民主主義という支柱のないテーブルに、自民党というコップがのりつづけていれば、早晩、ずりおちるにちがいない。わたしは、トランプ氏の関税攻勢に対し、「なめられてたまるか」と公然と言い放った石破氏に拍手喝采したものだ。
三木氏が1988年になくなって6、7年後、徳島市の野球場で三木夫人の睦子さんと出会った。社会人野球四国大会を前に審判講習会が行われ、わたしが大会の主催新聞社の一員として立ち会っていると、睦子さんが知り合いの審判員を訪ねてきたのだ。「野球はルールを守らなきゃならないように、政治は憲法を守らなきゃ」という睦子さんと大いに意気投合したのであった。
今年、トランプ氏が2期目の大統領に就任したことで、わが国の政治は一寸先も見えないカオスのなかに入りこんだ。アメリカ一辺倒政策を続けるのか、脱却して距離を置くのか、中国とどう向き合っていくのか――。暗中模索の今こそ、戦後政治の原点である憲法の理念に立つべきだとわたしは思う。平和主義と国際協調主義を貫き、地球環境を守るとの立脚点にたてば、国のかじとりを誤ることはないはずである。
だが「憲法改正」の声ばかりが大きくなる現実をみると、悲観せざるを得ない。
三木政権が倒れるのと入れかわるように生まれた新自由クラブは10年後、自民党に吸収された。参政党はどうなるだろう。わたしは、自民党から参政党に移る議員が続出し、参政党が肥大化するのではないかとおそれる。三木おろしから半世紀。石破おろしは自民党の終わりの始まり、さらには戦後から戦前への回帰の始まりを表しているのである。