連載コラム・日本の島できごと事典 その178《軍神とひめゆり》渡辺幸重

ガダルカナル島に上陸する米海兵隊(「ウィキペディア」より)

第二次世界大戦中、“軍神”とされ戦意高揚に利用された軍人の一人に八重山列島・与那国島(よなぐにじま:沖縄県)出身の大舛(おおます)松市がいます。松市は1943(昭和18)年1月13日、ソロモン諸島・ガダルカナル島で中隊長として部下14人とともに米軍敵陣に突入し、25歳で戦死しました。御前会議でガダルカナル島からの撤退(「転進」)が決定した前年12月31日と実際に撤退が完了した1943年2月初めの間の出来事でした。

松市の妹、清子はひめゆり学徒隊として動員され、学徒隊解散の命令が出された1945(同20)年6月18日の翌日に糸満市の海岸で米軍の砲撃を受けて16歳で亡くなりました。ひめゆり学徒隊240人(教員を含む)のうち136人が死亡していますが、突然の解散によって戦場に投げ出されたため死亡者の約8割が解散直後の1週間の間に集中しています。

与那国島で1917(大正6)年8月6日に生まれた松市は沖縄県立一中に入学し、1937(昭和12)年には沖縄県でただ一人の現役合格者として陸軍士官学校(予科)に入学しました。1940(同15)年に見習士官として大陸に渡った後、対米開戦後は歩兵連隊に配属されて香港やインドネシアなどを転戦、1942(同17)年11月には中隊長としてガダルカナル島に上陸して反転攻勢に転じた米軍と戦ったのです。

大舛の伝記によると、米軍の攻撃の前に日本軍が総崩れとなるなかで、腕や足などを負傷した松市は部下の肩を借りながら敵陣に切り込む戦いぶりで、最後の姿は「ぼろぼろの軍服、破れた地下足袋、左手を首に吊るし、片脚に深い傷を引きずり、顔一杯の包帯」だったそうです。

陸軍省は1943(同18)年10月、大舛の戦功を称える軍司令官の「感状」が昭和天皇に報告された(「上聞」に達した)ことを公表しました。これが全国紙や沖縄の新聞に大々的に取り上げられ、松市は“軍神”とされるようになりました。沖縄県の教育界も大舛顕彰運動を展開し、沖縄における国家総動員体制の原動力として日本軍への協力や動員などが進められました。当時の沖縄県の新聞の社説は「大舛精神は体当たりの精神であり所謂特攻精神である」としています。松市の死は軍神化によって沖縄戦を遂行するために最大限に利用されたといえます。

松市の家族は「沖縄が生んだ英雄の家族」となりました。新聞などの取材もあり、妹の清子がインタビューに上手に答えられなくても新聞紙上には立派な戦意高揚の記事が掲載されたそうです。
清子は沖縄師範学校女子部に入学し、ひめゆり学徒隊の一員となりました。伊原第三外科壕で看護にあたっていましたが、1945(同20)年ひめゆり学徒隊に解散命令が発令された翌日の6月19日に大度(おおど)海岸で米軍の銃撃に遭って動けなくなりました。証言によると、清子は腰の辺りが血で染まり、足が伸び切って体位も変えられない状態で、一緒にいた教員たちから「きっと迎えに来るから」と言われながらその場に残されたそうです。その後の清子の消息は不明で遺骨も見つかっていません。

戦時中、松市の戦いぶりを郷土の誇りとした『ああ大舛中隊長』という歌がありました。しかし、戦後この歌が歌われることはないそうです。