散歩道《セミナリオと禁止令》片山通夫

 織田信長や豊臣秀吉代それに徳川家康などが活躍していた時代、フランシスコ・ザビエル(写真左)というカトリックの司祭がインドのゴアから日本に来てキリスト教(カトリック)の布教を目的として来たのは1549年だった。聖パウロ(初期キリスト教の使徒で、新約聖書の著者の一人)を超えるほどの多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。ところが徳川家康の時代になって、キリスト教は禁止されたことは有名である。 キリシタン禁制は特に江戸幕府により1612年(慶長17年)以降のものが指す。豊臣秀吉による伴天連追放令(1587年)が先駆けとなり、家康は幕府の封建体制確立のため全国に禁教令を発布した。これによりキリスト教徒は弾圧され、宣教師の国外追放や教会の破壊、さらに島原の乱(1637年)が起こった。

この禁止令により、外国との交易は長崎の出島でオランダと中国(明代)のみの細々とした交流しまなかった。ただ江戸幕府の将軍交代時には李朝朝鮮から朝鮮通信使が対馬の宗氏を通じてやってきた。またアイヌ民族はアムール川河口辺りから蝦夷地の松前藩を通じて江戸幕府と交流があった。

江戸幕府の伴天連追放令以前は、平戸(長崎県)などとオランダやポルトガルとの交易が盛んだった。同時期にはセミナリオがあちこちに建てられてカソリックの布教と日本人の信者を増やした。禁止令以後は、信者たちは最終的にジャカルタやマニラなどに追放された。中にはキリシタン大名の高山右近ジャガタラお春などがいた。

滋賀県安土のセミナリオ跡
セミナリオの建物(下)