
伊賀は三重県にある。松尾芭蕉の生誕地としても有名だ。また伊賀には今も忍者が棲む。「伊賀者」と言って、呪術や火術を得意とし、山岳兵法にも長けていた。伊賀忍者と甲賀忍者は生息しているところが隣接していたため、協力関係にあったらしいが、真実は煙幕の彼方にあり明確ではない。
一説に松尾芭蕉は伊賀忍者だったという噂がまことしやかに伝えられている。
その理由の一つに、松尾芭蕉の代表作「奥の細道」は、江戸深川の自宅から、奥州・北陸地方を巡る旅の紀行文で、費やした日数は約150日間、2400キロにも及ぶ旅で訪ねた各地を、御存じの俳句で描いた。当時、旅は今のように自由でなく、通行手形が必要だった。通行手形とは江戸時代旅人が関所を通過する際に必要だった身分証明書や許可証のことで現代のパスポートと言える。手形に記載された内容は、旅人の名前、住所、旅の目的、行先などで身元保証人は村の庄屋や旦那寺がなることが多く、武士の場合は、所属する藩の役人が発行したとか。この面倒な手形をもって芭蕉は諸国を回ったはずだ。一般に江戸時代の旅はこのように面倒だった。この面倒な手続きを免責されたのではないかと言う憶測が、芭蕉は公儀隠密だったのではないかと言うのだ。
けど公儀隠密が「自らは公儀隠密である」と名乗って歩くとは思えないので、やはり手間のかかる手形を持ってだろうな・・・。
今一つ、芭蕉には数多の門弟もしくは句仲間が、日本各地にいて彼らが芭蕉の世話を行く先々で行ったようだ。そうしてあの2400キロに及ぶ旅を成し遂げたわけだ。はじめは門人の河合曾良を伴って江戸深川から奥州・北陸地方を巡る旅だった。
月日は百代の過客にして 行かふ年も又旅人也
舟の上に生涯をうかへ 馬の口とらへて老をむかふるものは
日々旅にして旅を栖とす 古人も多く旅に死せるあり
で始まる「奥の細道」はなかなか意味深い書き出しだ。考えてみれば俳聖芭蕉の文なのだ。考えてみればまことに失礼だ。
あらたふと青葉若葉の日の光
田一枚植て立去る柳かな
笠島はいづこ五月のぬかり道
五月雨の降残してや光堂
一家に遊女も寝たり萩と月
芭蕉は新潟から北陸道を富山、金沢と進み福井、敦賀を経て木之本から関ケ原へ急ぎ岐阜大垣までで、この旅を終えた。芭蕉はこの後故郷伊賀上野へ向かったとか。