現代時評《昭和天皇が退位しなかった戦後 上》井上脩身

毎日のようにラインで近況を知らせてくる旧知の友人の報告のなかに、数年前から「天皇陛下バンザイ」の書き込みが頻発するようになった。「天皇陛下バンザイ」という強い響きは、わたしには「名誉の戦死」とかさなり、80年前のあの重苦しい戦争のイメージがつきまとう。天皇主権の国から、戦後、国民主権の国になり、天皇自身「戦争勝利の神」から「平和をねがう象徴」に変わったはずだ。この20年あまり、わが国の右傾化が目立ちだしたが、気の合う友まで天皇崇拝者になったことにショックをうけ、このままでは戦前のような国になってしまうのでは、とおそれおののいた。その懸念が戦後80年のことし、現実化した。「天皇は国をしらす」と唱える参政党が躍進したのである。なぜこのようなことになったのか。現人神から象徴へと天皇制が変更されたにもかかわらず、昭和天皇が退位しなかったことにその一因がある、とわたしは思う。戦後、この国は生まれ変わるため新たな憲法を制定した。その公布は新しい天皇の名でなされるべきであった。

日本語学級での差別

私事であるが、1977年、わたしが勤めていた新聞社が「教育を追う」シリーズを企画、その取材班に一時期わたしも組み込まれた。わたしたちに与えられたテーマは「国際化の中で」。取材班で議論して浮かび上がったのが、グローバル化のなかでの日本人の排他性であった。欧米人には腰を低くして取り入れられようとする一方で、アジアの人たちに対する上から目線。こうした日本人の体質がさまざまな問題を引き起こしているのではないか。といった視点で取材に取り組むことになった。
わたしは東京・江戸川区立中学校の日本語学級を取材先に選んだ。中国や韓国から引き揚げてきた子どものために設けられたこの学級の全員が「非行少年」のレッテルをはられ、PTAの間から「日本語学級排斥運動」が起こったというのであった。レッテルをはられたひとりは韓国からの引き揚げ者の子どものM君。1、2年生のときは比較的まじめに勉強していたが、3年生になると突然、ダブダブのズボンをはいて登校するようになった。教師が注意すると「てめえ……」とわめき散らし、授業中もふざけるようになった。半年後、学校から「自宅謹慎」が命じられた。PTAからの突き上げがあったとおもわれ、M君は卒業まで学校に出られなかった。
M君に何度か会い、ようやく重い口を開いた。「悪かったとおもってる。でも、何かが起こると、先生は『お前らがやったんだろう』とぼくらのせいにする」。そしてこう打ち明けた。「みんながぼくのほうをジロジロみて『チョーセン人、チョーセン人』とバカにする」。M君の父親は韓国人。戦争中、旧日本軍の軍属として鹿児島で働いているうち日本人女性と知り合い、韓国で結婚、そのまま終戦を迎えた。M君は友だちから「ニホン人」とののしられ、「オモニ(母)の国に行けばしあわせになれる」と夢をみた。そのオモニの国で差別を受けたのだった。
同学級には山形県から中国北東部の旧満州の開拓村に渡った父親一家が日本に引き揚げるさい、現地にとり残された子どもの娘(父親の孫)らもいて、戦前の日本の中国、朝鮮侵略政策の後始末的教育現場であった。中国・朝鮮を見くだした戦前の植民地政策のもとで彼らの祖父母は外地生活を送り、その孫が戦後、引き揚げてきた日本で差別を受ける現実。わたしは声をうしなった。憲法は変わったのに日本人の差別意識はなんら変わっていないのだ。彼ら親子三代は相も変わらず昭和天皇の時代である。戦争が終わったとき、天皇は退位すべきでなかったか。とわたしは疑問に思ったのであった。

新憲法を昭和天皇が公布

ノンフィクション作家・保阪正康氏の『仮説の昭和史』(毎日新聞出版)によると、昭和天皇は3回、退位を漏らしたという。1回目は終戦直後の1945年8月下旬、木戸幸一内大臣に打ち明けた。2回目は極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決の日である1948年11月12日、側近にその意向をつたえた。3回目はサンフランシスコ講和会議を終えた1951年9月、周辺に告げた。保阪氏は「昭和天皇は太平洋戦争に強い自省の念をもっていた」とみる。だが、結局退位することはなかった。その理由について、政治学者の加藤陽子氏は、GHQのお目付け役だったジョージ・アチソン政治顧問が「天皇を退位させるべきでない」と提言したことを挙げる(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』(講談社学術文庫)。アメリカは占領政策を混乱なく行うために、天皇を戦争犯罪人として訴追しない方針を立てており、そのためには退位はまずいと判断したのだ。
以上見た通り、天皇は自らの戦争責任として退位をおもい、アメリカは戦争責任をとらせないために退位を認めなかったのである。
明治憲法下において、天皇には「陸海軍を統帥」(大日本帝国憲法第11条)し、「戦を宣す」(同第13条)権限がある。実際、対米英宣戦布告は天皇の詔書によってなされており、昭和天皇に戦争責任があるのは明らかであろう。それが政治的事情によって「ない」ことにする是非についてはここでは掘り下げない。むしろ問題は新憲法を昭和天皇の名によって公布したことの是非である。
日本国憲法は1946年11月3日に公布された。この新憲法は国民主権、平和主義、国際協調主義を基調とし、基本的人権の享有を強く打ち出した。「万世一系の天皇が統治する」とした明治憲法のもと、侵略主義にはしり、軍部の暴走をまねいて戦争国家になったことを反省し、天皇尊崇の国から個人を尊重する国へと生まれ変わることを示したのである。こうした観点にたって、天皇の存在意義について、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)とうたいあげたのであった。
「象徴」という言葉を言いだしたのはGHQ民政局次長のケイディスだったという(『昭和天皇と戦争の世紀』)。新渡戸稲造の著作『日本 その問題と発展の諸局面』のなかに「天皇は、国民の代表であり、国民統合の象徴」とある。これがケイディスに影響を与えたかどうかは定かでない。それはともかく、「象徴」の具体的な内容について憲法に規定がないことから、前文から解釈するしかない。前文は平和主義、国際協調主義を掲げている。よって、天皇が象徴としてとるべき道は、平和と国際協調のために国民に率先垂範することなのである。いうまでもなく、明治憲法下の天皇の任務が陸海軍の統帥であったこととは真反対である。
重ねて述べるが、天皇が象徴であることは、戦前の侵略国家の軍事統帥者からの決別である。したがって、新憲法は新たな天皇の名で公布されねばならない。にもかかわらず、昭和天皇は自らの名で公布したのである。前掲の『昭和天皇と戦争の世紀』によると、木戸内大臣は新憲法について「天皇はいかなる程度に改正すべきか研究されていた」と『日記に関する覚書』に記している。昭和天皇は自らを象徴にしようとは考えてもみなかったであろう。象徴であることの意味を正しく認識していたなら、「古い時代の自分は出る幕でない」と考えたはずである。(明日に続く)