散歩道《飛鳥から奈良へ・元興寺》片山通夫

元興寺の屋根

奈良時代と言うと一番に思い浮かぶのは「奈良漬」だというのは、我ながら、いささか恥ずかしい。奈良時代の長屋王の邸跡から出土した木簡に「進物加須津毛瓜(たてまつりものかすづけうり)」と記されていたものが出た。これは約1300年前の奈良時代にまで遡る。ボクは1300年前から、あの謀反の疑いで自害を余儀なくされた長屋王が頂き物の瓜の粕漬けを食べていたことを知って、いっそう長屋王に親しみと憐れみを感じる。

その奈良へ飛鳥から遷都されたのは710年、元明天皇によって行われた。推古天皇(592年即位)以降、歴代の天皇たちはそれぞれ飛鳥内ではあるが、宮(天皇の居場所)を移していた。大化前代の宮(皇居)は、多く飛鳥地方の中で天皇の代ごとに移っていた。しかし、大化の時に孝徳天皇は難波(なにわ)に長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)を造り、天智天皇は近江大津宮に移ったことも知っておきたい。飛鳥から奈良への遷都の理由は、より立派な都を築くことで天皇の権力や支配力を国内外に示すため、また藤原京の環境問題(水はけの悪さなど)も挙げられる。

そのころ中国では、唐(618年 – 907年}の時代で、世界でも有数の繁栄の国であった。またその都・長安は世界で最も繁栄した都市の一つであり、政治、経済、文化の中心地として栄えていた。日本の平城京や平安京も、長安をモデルに設計された。当時遣唐使として(その前には遣隋使が派遣された)唐の都・長安に着いた日本の留学生たちは、巨大な長安の都市を見て度肝を抜かれた。そして平城京は75mもの道幅の通りを設計して、長安をモデルにしたことがうかがえる。先進の中国・朝鮮の都城を模して、東西路「条」と南北路「坊」を碁盤目状に配す条坊制とした。その中心をメインストリートの朱雀大路が南北に貫くという設計には飛鳥人も度肝を抜かれたと考える。

話は変わるが、興福寺など南都の寺院が並ぶ地域に当時の面影が残る「奈良町」が広がる。この奈良町は、言ってみれば元興寺(がんごうじ)の広大な寺内町だったらしい。元興寺の創建は718年。平城遷都に伴い、飛鳥の地にあった日本初の本格的仏教寺院・法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺のこと)が平城京に移され、その寺名を「元興寺」と改めたのが始まりであり、飛鳥時代の瓦が一部使われているという話。なんだか歴史の話で「説明的」で、あまりボクもうれしくない。

ボクは何年か前にこの寺の、近在の人々で賑わう地蔵盆に行ったことがある。その時の写真を披露して説明的な部分を補いたい。地蔵盆は関東では道祖神信仰が中心だった為か東ではあまり広がらなかった。関西では京都の辻々にあるお地蔵さんを子供たちが中心になって祀る。その地蔵盆が何時の頃からか奈良町の元興寺でも行われるようになった。