連載コラム・日本の島できごと事典 その176《全島避難》渡辺幸重

三宅島・雄山の火口(三宅村『三宅島噴火2000 火山との共生』より)

火山島の場合、大噴火によって火砕流やガスが島全体に及び、逃げ場がなくなる場合があります。そういうときには住民全員が島外に避難するしかありません。それが「全島避難」です。前に紹介した伊豆諸島・青ヶ島の「青ヶ島還住」はその一つです。なお、全島避難という言葉は一部連絡員を残した場合にも使われます。

伊豆諸島では青ヶ島以外の島でも全島避難の歴史を持っています。1986(昭和61)年11月から約1ヵ月間、全住民約1万人が島外へ避難した大島(伊豆大島)と2000(平成12)年9月から2005(同17)年2月に避難指示が解除されるまで4年5ヵ月にわたって島で暮らすことができなかった三宅島(みやけじま)です。

長期にわたる島外避難の原因になった三宅島・雄山の噴火は2000(同12)年6月に始まり、7月には山頂の噴火で雄山が大きく陥没しました。一連の噴火により噴煙は最大1万4,000mの高さまで達し、火砕流は海岸部にまで達し、有害な二酸化硫黄を含む火山ガスが集落を襲ったため、9月1日に全島避難という事態に発展しました。二酸化硫黄の放出量は同年11月がピークで最大で1日7万トンを超えたといわれます。2005(同17)年2月1日に避難指示が解除されましたが、その後も火山ガスの放出が続いたため2つの高濃度地区では2015(同27)年9月16日の全面解除まで居住制限が続きました。

東日本大震災時の福島原発事故による全住民避難の時もそうでしたが、長期避難の最大の問題は“コミュニティの喪失”です。三宅島の人々は、東京・代々木の国立オリンピックセンターに一時避難したあと、約9割の住民が東京都内の23区26市3町に、他の約1割が北海道から沖縄県までの20道府県に分散して避難生活を始めました。人々は初めは短期避難のつもりでした。そのため準備も十分ではなく、三宅村では村民の住所確認に苦労したといいます。

子供たちは家族の避難先の学校か家族と別れて都立秋川高校の施設を利用した寮生活のどちらかを選ぶことになりました。長期間の親元を離れての寮生活は子供たちに情緒不安定や体の不調などをもたらしたと指摘されています。

高齢者対策も課題の一つでした。三宅村では「全島避難と前後して要介護度認定者や施設入所者が急増するなど、避難が高齢者の心身に大きく影響を及ぼした。それは家族にとっても過酷なものであった」と指摘しています。

薩南諸島の口之永良部島(くちのえらぶじま:鹿児島県)では2015(平成27)年5月29日、新岳がマグマ水蒸気噴火を起こし、全方向に流れ出た火砕流が人々が住む向江浜(むかえはま)海岸まで達しました。このため全住民と来島者計約140人が隣の屋久島に避難しました。12月以降住民は順次帰島を果たしています。ちなみに、「2015年国勢調査」は全島避難の時期に重なったため口之永良部島では実施されませんでした。

伊豆諸島の鳥島では1902(明治35)年に大噴火があり、当時の住民125人全員が避難できずに死亡するという災害が起きました。このような悲劇が起きないようにするために全島避難が実施されているのです。