連載コラム・日本の島できごと事典 その174《歌オラショ》渡辺幸重

生月島“隠れキリシタン”の集会(「平戸学」サイトより) 

オラショとは日本の潜伏キリシタン(隠れキリシタン)に伝承されてきた祈りの言葉で、ラテン語のoratio(オラシオ/オラツィオ:祈祷文)に由来します。江戸時代から明治初期まで約260年にも及ぶキリシタン禁教の中、人々は密かに祈りの歌を歌い、信仰を保ってきました。そしてオラショは現在まで約400年もの間口伝えに伝承されてきたのです。オラショは「ごしょう(御誦)」とも呼ばれます。

御詠歌のような節が付いた歌を伴うものを特に「歌オラショ」と言います。長崎県・平戸諸島の生月島(いきつきしま)の壱部(いちぶ)地区には3つの歌オラショ(『らおだて』『なじょう』『ぐるりよざ(うぐるりや)』)が伝承されています。長期間楽譜もない状態で密かに伝わったにも関わらず原旋律をかなり忠実に守られていることから、これらの原曲はラテン語聖歌「グレゴリオ聖歌」の中の曲であることがわかっています。しかし、それがわかるまでには研究者たちの長年にわたる地道な調査研究が必要でした。

西洋音楽史研究家・皆川達夫は1975(昭和50)年から生月島を何度も訪れてオラショの研究を続けました。歌オラショの起源を調査した結果、『らおだて』は聖歌『総ての国よ、主を讃美せよ・Laudate Dominum omnes gentes(ラウダーテ・ドミヌム)』、『なじょう』は聖歌『今こそ御言葉に従い Nunc dimittis(ヌンク・ディミッティス)』が原曲であることを付き止めました。2つは現在のグレゴリオ聖歌にも掲載されています。ところが3つ目の『ぐるりよざ』はなかなか元の曲がわかりませんでした。

皆川は『ぐるりよざ』の原資料を探し求めてヨーロッパ中の図書館を訪ねました。資料を1冊1冊、1頁1頁めくりながら探す気の遠くなるような地道な作業を続けました。特にローマのヴァチカン図書館は重点的に何回にもわたって調査しましたが手がかりは得られませんでした。

調査を始めて7年後の1982(同57)年10月、スペインのマドリード国立図書館で、それらしい16世紀聖歌集の書名をカードで見つけ出しました。その中に『ぐるりよざ』の原曲『おお、栄光の御母よ、星空高くいます・O gloriosa Domina,Excelsa super sidera(オー・グロリオーザ)』があったのです。皆川は本を手にしたときこれに相違ないと直感し、手が震えたと言います。

それは、16世紀にスペインの一地方だけで歌われていたローカルな聖歌でした。その地域出身の宣教師が400年ほど前に日本の生月島にこの歌をもたらし、潜伏キリシタンが命を賭けて今日まで歌い継できたのでした。皆川は「この厳粛な事実を知った私は言い知れぬ感動に捕らわれて、スペインの図書館の一室で立ちすくんでしまった」そうです。

歌オラショは「日本最初の洋楽」と言われるときもあります。日本人が初めて西洋音楽に接したのはキリスト教が日本に伝来してからの聖歌に間違いなさそうですが、「記録があるかないか」「洋楽を初めて聴いた」「洋楽を初めて歌った」「現在まで伝わる洋楽」など見方によって異説も多いので注意してください。

「平戸市生月町博物館・島の館」には生月島の“隠れキリシタン”の歴史や貴重な資料が紹介されています。

写真:生月島“隠れキリシタン”の集会(「平戸学」サイトより)
https://www.hirado-net.com/hiradogaku/heritage/detail.php?mid=59