
宮城県松島湾に浮かぶ島々を含む松島湾沿岸には約70ヵ所の縄文時代早期から晩期の貝塚が分布しており、東京湾や霞ヶ浦沿岸とならんで「貝塚が特に密集する地域」として全国的に知られています。
貝塚からは製塩土器が出土しており、縄文時代は松島湾沿岸が国内最大の塩の生産地として奥羽山脈を越えて山形方面まで塩を供給していたことが明らかになっています。付け加えると、同じ地域で奈良時代から平安時代にかけても製塩遺跡が見つかっており、古代の松島湾沿岸は、国府である多賀城の管理の下で軍事用の塩を供給する一大生産地であったと考えられています。
貝塚のうち、本州島沿岸の西ノ浜貝塚(松島町)、大木囲(だいぎがこい)貝塚(七ヶ浜町)および宮戸島の里浜貝塚(東松島市)は長期間にわたって生活のあとが見られ、日本最大級の規模を持つので「松島湾内三大貝塚」と呼ばれています。三か所とも国の史跡に指定されています。
宮戸島は松島湾最大の島で、松島湾と石巻湾を分ける位置にあるので宮戸島周辺は「奥松島」と呼ばれています。本州島・野蒜(のびる)海岸とは松ヶ島橋(奥松島パークライン)で結ばれ、松島の観光スポットの一つになっています。
里浜貝塚は宮戸島の西部にあり、東西約640m、南北約200mという国内最大級の規模を持ち、大きくわけて「台囲(だいがこい)地点(西貝塚)」「畑中・梨木囲・袖窪地点(東貝塚)」「寺下囲・西畑・里地点(北貝塚)」の3つの貝塚群からなります。縄文時代前期(約6800年前)から弥生時代中期にかけての集落跡で、多くの漁具・装身具など多彩な骨角器に加えて縄文時代の人骨が発掘されています。
各地点の遺跡は“宮戸島人(里浜縄文人)”が4千年以上に及んで数百年~千年単位でムラの場所を移動しながら海を中心とした生活をしたことを示しています。
里浜貝塚は1918(大正7)年に東北帝国大学の研究者が学術調査を始めて以来100年以上も調査が続いており、奥松島縄文村歴史資料館に里浜貝塚の断層面や出土土器などが展示されています。
松島湾の島嶼部で貝塚が発見されているのは、宮戸島の外に塩竈(しおがま)市の内裡島(だいりじま)や野々島、桂島、寒風沢島、朴島、船入島、馬背島(うまのせしま)などがあります。
ところで、松島湾内に堆積した土壌の花粉を分析した結果、製塩が盛んだった時期を境に植生がナラやブナの林からアカマツの林へと大きく変化したことがわかっています。これは燃料調達のために木材の伐採が進み、そのあとやせた土地に適したアカマツが広がったと考えられます。松林の景観で知られる松島ですが、岩礁以外にも広がった松の景観は製塩業による自然破壊が原因かもしれません。