安保、浅沼委員長暗殺、大学、国鉄・・・。暗かった社会のはけ口を若者たちはデモで社会に政府に大学、いわゆる体制側に訴えた。決してとは言えないが、あまり効果はなかったように思える。「挫折」と言う言葉が若者の間にはびこった時代でもあった。 “Once Upon a Time《挫折の時代》片山通夫” の続きを読む
光と影が綾なすとき《百鬼夜行》写真・片山通夫

その昔、平安時代のこと。京の都には百鬼が跋扈していた。百鬼夜行と言い、深夜に徘徊をする鬼や妖怪の群れ、および、彼らの行進を指す。
つまり人に災いをもたらす妖怪変化どもが深夜に都大路を練り歩いていた。
そんな時代に彼らが人間にもたらす災いを避けるために陰陽師がいた。陰陽師は天文学に優れて星の運行を読んで未来を読んだという。有名な陰陽師に安倍晴明がいた。時代が流れ京の都が応仁の乱にあった時、安倍晴明の子孫は若狭の国名田庄に疎開した。その名田庄に天壇が今に残る。 応仁の乱
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*天壇:土御門総社にある「天壇」。四神を示す四色の鳥居が四方を囲む神聖な空間。平安時代の大陰陽家として名高い安倍晴明を始祖とする土御門家は、「陰陽寮」の長官を世襲していました。その後、応仁の乱などの戦火を逃れるため、1400年代にこの名田庄の地に移り住んだと言われている。
不定期・連載
光と影が綾なすとき《メリケン波止場の壁画》写真・片山通夫
【609studio】神戸港にメリケン波止場と言う波止場がある。なんでも当時、この近くにはアメリカの領事館があり、当時の人々は「アメリカ」を「メリケン」と聞き間違えたため、メリケン波止場と呼んだらしいと言うが、アクセントが「メ」にあったのでそう聞こえたということではないのかとボクは思っている。当時は聞こえたまんま発音したであろうから。

光と影が綾なすとき《差し込む光・妻籠宿》写真・片山通夫
【609studio】妻籠宿は馬籠宿と並んで中山道の有名な宿場町である。写真は脇本陣奥谷で、格子から太陽の光が差し込む光景を秋から早春と言った季節限定(9月から3月の晴れた日)だが見ることができ、今や妻籠宿の風物詩となっている。
光と影が綾なすとき《石畳の道・京都》写真・片山通夫
【609studio】京都の八坂神社から少し下がったところにこじんまりとした通りがある。周りはいかにもと思える料理屋さんが数軒並んでいておりしも降っていた小雨もやんで灯がともった。まるでおあつらえ向き。
光と影が綾なすとき《BAY函館》写真・片山通夫
【609studio】サハリンへは、最初の頃は函館空港からサハリン航空が飛んでいた。その後は千歳空港からに変わった。函館に行くのは大変だったが、千歳へは簡単に行くことができた。この写真はいささか古いので恐縮だが函館の倉庫街で撮ったもの。

ヘッダー画像、変更しました。
写真は丹波篠山市の郡部で撮ったものです。急に寒くなってきたので少し暖かい雰囲気を・・・。
光と影が綾なすとき《駅のベンチ》写真・片山通夫
【609studio】雨だったので(言い訳)豊岡まで行ったが、なかなか・・・。
それで駅のベンチを電車の車内から。(山陰線) 不定期連載

Webサハリン物語《episode#14 密航》文・写真 片山通夫

【609studio】この前まで通常の航海だった。しかし日本が戦争に負けてから、環境は一変した。サハリンの西海岸・日本海に面した町に「阿幸」と言う小さな漁村がある。旧鉄道省の記録によると「阿幸」は「おこう」と読み、樺太西線という鉄道が日本海に沿って、上りは本斗駅行き5本が運行されていて、下りは野田駅行きと久春内駅行き各2本と北真岡駅行き1本が運行されていた。 “Webサハリン物語《episode#14 密航》文・写真 片山通夫” の続きを読む
現代時評《プーチンの夢は帝政ロシア?》片山通夫

もう何年も前のことになる。筆者はヨーロッパへ向かうアエロフロート航空に羽田から乗った。アエロフロートはソ連の国策会社だった。当時はガチガチのソ連で、空港の係官も「笑顔を見せたら罰せられる」ような雰囲気だった。むろんアエロフロートの乗組員も笑顔は全く見せないし、早口のロシア語でアナウンスするだけだった。はっきり言って恐ろしかった。
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