連載コラム・日本の島できごと事典 その187 《グアノ》渡辺幸重

南鳥島(「インサイト情報ナビ」サイトより)

日本の最東端に位置する南鳥島(東京都小笠原村)は、その沖合の大水深6,000mの海底面にレアアースを多く含んだレアアース泥が存在することで話題になっていますが、1900年代前期にはグアノ(糞化石、鳥糞石:リン鉱石)採掘が盛んに行われた「日本で最初のリン鉱採掘の島」でした。しかし、1933(昭和8)年にはリン鉱が枯渇して無人島になり、今では海上自衛隊や気象庁などの職員が常駐しているのみで、民間人の立入は禁止されています。

南鳥島は小笠原・父島の東南東1,220kmにあり、日本では唯一日本海溝の東側にある島です。1896(明治29)年に水谷新六が小笠原の母島から約20人を移住させてアホウドリの羽毛採取やコプラ生産、カツオ漁業を始め、開発が進みました。島には“水谷村”という集落が形成され、島も「水谷島」と呼ばれました。水谷は1898(同31)年に東京府から島の貸与を受け、この年に東京府が島を「南鳥島」と命名して日本領土となっています。1902(同35)年にはアメリカとの間で領土問題が起こり、外交協議によって日本領土であるとなった「南鳥島事件」が起きています。

開拓当初はアホウドリの羽毛がかなり取れたようですが鳥類が激減したために主産業は剥製作成に変わり、1903年(同36)年2月に水谷は東京府に「鳥糞採取願」を提出し1ヶ月後に許可を得てからはグアノ採取が盛んになりました。当初から大量のグアノ・リン鉱を産出したようで、大正初期には年間600トンのリン鉱を産出しています。島の中央から港にかけて運搬のためのトロッコがひかれ、出稼労働者が60~70人に達したそうです。1922(大正11)年に経営が全国肥料会社に移りましたが、リン鉱価格の急落や肥料業界の不況、資源の減少などよって業績が低迷し、廃業となって昭和の初めには漁業に従事する数世帯のみが生活する島になってしまいました。そして1933(昭和8)年頃には漁業者も引き揚げ、南鳥島はもとの無人島に戻ったのです。

南鳥島が注目されたのは、伊豆諸島・鳥島(東京都八丈支庁)において玉置半右衛門がアホウドリの羽毛の輸出によって巨万の富を得たことから一捜千金をもくろむ人々が鳥島と同じような島を探す「南方の無人島発見ブーム」が起きたからです。水谷もその中の一人でした。
南鳥島における事業経営は労働者にとって過酷を極めました。1900(明治33)年9月に南鳥島へ渡航した出稼ぎ労働者9人のうち5人が脚気などで死亡し、病気の2人が軍艦「高千穂」に収容されています。また,1902(同35)年6月の渡航者25人は高潮によって飲料水が汚染されたため赤痢が発生し、8人が死亡しました。労働者は減少し、1903(同36)年には14人になっています。水谷新六は1903(同36)年2月、東京府知事への「始末書」を提出させられました。

グアノはリン鉱石が発見されるまで最も主要なリン資源でしたが、ナウル共和国をはじめ他の南洋の島々も南鳥島と同じように採掘地の多くはすでに掘り尽くされ枯渇しています。

現代時評[写真よもやま話ー5ー]片山通夫

さて写真の話。まず当時使っていたカメラ機材は先に述べたようにレオタックス、レンズはトプコール50ミリf2。なぜこの組み合わせだったかというと、中古市場で安かったからに尽きる。フィルムはコダックTRI-Xという舶来のフイルムには手が出なかったので、ネオパンSSS(スリーS ASA200)だった。このフィルムは当時仕上がりが荒くてコントラストも強かったと記憶する。 “現代時評[写真よもやま話ー5ー]片山通夫” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その186《島四国》渡辺幸重

小豆島八十八カ所霊場マップ(「小豆島八十八カ所めぐり」サイトより)

弘法大師・空海とともに歩くという意味の「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉を白衣や金剛杖、菅笠などに記して四国全体に存在する霊場をお詣りする「四国八十八カ所巡り」(四国遍路)は有名ですが、四国までが遠いとか広い四国を回るのは時間がかかりすぎるというので全国各地に四国よりも小規模の八十八カ所が数多く存在します。それは「地四国(ちしこく)」と呼ばれています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その186《島四国》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その185《対馬海戦》渡辺幸重

日本海海戦行動航跡図<部分:第一合戦>(「アジア歴史資料センター」 公式サイトより)

日本とロシアは1904(明治37)年から翌年にかけて戦争をし、ポーツマス条約によって終結しました。いわゆる日露戦争で、大きな戦いとして旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦があります。日本海海戦は1905(同37)年5月27日から翌28日にかけて日本海において日本海軍連合艦隊がロシアのバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち、壊滅的な打撃を与えたことで有名ですが、この戦いは海外では「対馬海戦あるいは対馬の戦い(Battle of Tsushima)」と呼ばれているそうです。日本海海戦の主力決戦が対馬東方沖海域で行われたからです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その185《対馬海戦》渡辺幸重” の続きを読む

現代時評plus《狂乱の時代到来か?》山梨良平

───────────────
現代時評plus《狂乱の時代到来か?》山梨良平
───────────────
英BBCが伝えたところ、南米ヴェネズエラの首都カラカス周辺で3日午前2時(日
本時間午後3時)ごろ、複数回の爆発音と、低空飛行する航空機の音が確認され、一部で停電が発生した。ヴェネズエラのマドゥロ政権は、「アメリカによる軍事侵攻」を非難し、全土に非常事態宣言を出した。その約3時間後、ドナルド・トランプ米大統領はソーシャルメディアで、ヴェネズエラに対して「大規模な攻撃を実施し、成功した」と発表。「マドゥロ大統領と妻を捕らえ、ヴェネズエラ国外に空路で移送した」と投稿した。 “現代時評plus《狂乱の時代到来か?》山梨良平” の続きを読む

年末です。ごあいさつを!!

この一年、皆様はいかがお過ごしだったでしょうか。アメリカではトランプ氏が大統領に就任して、「トランプ関税」が世界中で吹き荒れて大騒ぎでした。あんなに無茶な関税政策をまさかと思っていましたが、危惧した通り、アメリカの物価を押し上げるという反動が起こり、ここにきてアメリカ市民も物価高に耐えられずに、トランプ政権の支持率は低迷している。一方我が国の高市内閣の支持率は好調で70%前後だという。この高支持率は何を意味するのか筆者には理解できないが、おそらく中国などの国への国民の嫌悪感がそうさせているのではないかと憶測している。トランプ大統領と高市首相のコンビはいかにもという思いである。残念ながら彼らの世界は我々とはいささか異なる世界のようだ。
皆様、よいお年をお迎えください。 “年末です。ごあいさつを!!” の続きを読む

散歩道《柳生は山里》片山通夫

柳生は山里である。今では奈良市内から車で小一時間で行くことができる。かつて作家の山岡荘八氏が「春の坂道」の構想を練ったという屋敷はかつての柳生藩家老小山田主鈴の隠居宅であり資料館として残されている。特に特徴のある山里ではないが、柳生家が治めていた時代、柳生藩の時代に思いを寄せることのできる静かな山里である。 “散歩道《柳生は山里》片山通夫” の続きを読む

散歩道《近江の国・朽木村の伝説》片山通夫

朽木村は滋賀県琵琶湖の西側にあった県下唯一の村だった。今は高島市朽木となっている。ここでは便宜上「村」と呼んでおこう。村を南北に突き通る道路は、俗に鯖街道と呼ばれている。その昔、若狭の国にあがった鯖を一塩して京の都に一晩かけて運んだためにこの街道はそう呼ばれている。 “散歩道《近江の国・朽木村の伝説》片山通夫” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その183《真円真珠》渡辺幸重

 

眞圓眞珠發明者頌徳碑(「Tripadvisor」サイトより)

“真珠王”といえば御木本幸吉(1858-1954)。ミキモトパールを生み出した人で、(株)ミキモトの公式サイトには「創業者 御木本幸吉が、世界で初めて真珠の養殖に成功したのは1893年」と書かれています。一方、真珠養殖の発祥地とされる三重県英虞(あご)湾に浮かぶ賢島(かしこじま)の「眞圓眞珠發明者頌徳碑」には見瀬辰平・西川藤吉・御木本幸吉の3人の名が刻まれています。「真円真珠の発明者」が3人もいるのでしょうか。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その183《真円真珠》渡辺幸重” の続きを読む

散歩道《月読神社・京田辺市》片山通夫

京田辺市の月読神社で

 

 

 

 

 

 

 

京都の南に京田辺市という町がある。古来木津川の水運に支えられて栄えて来た。また大和を南に望む地域として継体天皇をはじめ様々な権力争いなどエピソードや伝説が伝えられてきた。
その町に月読神社という名のいわくありげな神社がある。月読はアマテラスの弟神で、イザナギとイザナミの間にできた夜をつかさどる神として有名だ。その神を祀る神社がここ京都の南部に鎮座している。そもそもこの神社のある場所は、今から1300年前、奈良朝時代に九州南部の大隅半島からここ大住の地に移り住んだ大隅隼人族が発生と言われ今も使われている「大住」の地名も彼らに由来する。また神社には隼人たちの舞が伝えられている。

京田辺市の観光案内HPから
月読尊(つきよみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀る延喜式内社で、大社に位置づけられていた。中世にはたびたび兵乱、兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した歴史があり、鎌倉時代初めに、源頼朝から神馬の献上があったとも伝えられ、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置された。現在の本殿は、東に面する一間社春日造、銅板葺(もとは桧皮葺:ひわだぶき)の建物である。明治26年(1893年)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。本殿を囲む瑞垣の正面に、鳥居を配置する珍しい構造が見られる。この春日造は奈良の春日大社本殿の形式で、この様式は、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。本神社が位置する大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園であった。神宮寺として、宝生山福養寺が明治の初めごろまで存在し、奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊の六坊が備わっていたが、すべて廃寺となっている。往事の社域は、大住小学校の北側あたりに北ノ坊の旧跡が調査で確認されており、かなり広大な社であったことがうかがえる。 毎年10月14日の宵宮には大住隼人舞(市指定文化財)が奉納される。

隼人の舞

This website stores cookies on your computer. These cookies are used to provide a more personalized experience and to track your whereabouts around our website in compliance with the European General Data Protection Regulation. If you decide to to opt-out of any future tracking, a cookie will be setup in your browser to remember this choice for one year.

Accept or Deny