「連載コラム・日本の島できごと事典」カテゴリーアーカイブ

連載コラム・日本の島できごと事典 その126《焼酎》渡辺幸重

 島にはそれぞれ特色のある“味”があり、そして“島酒”があります。「おいしい酒」というと、島に生まれ育った人間や島旅が好きな人はどうしても自分の故郷や贔屓の島の酒を第一に挙げることが多いようです。私の場合は屋久島の芋焼酎「三岳(みたけ)」ということになります。

伊豆諸島・青ヶ島の島酒は「あおちゅう(青酎)」です。酒造会社は1つでラベルも同じですが、各家庭に伝わる製法と味が10人ほどの杜氏に引き継がれ、それぞれが異なる味を持っているといわれます。サツマイモと麦麹を使ったものが主流で、流通量が少なく島外では購入が難しいため“幻の酒”と言われましたが、最近ではスーパーで目にすることもあります。私にとっては「トビウオのクサヤで一杯」が最高です。
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連載コラム・日本の島できごと事典 その125《臥蛇の入道先生》渡辺幸重

「臥蛇島の入道先生」比地岡栄雄(『臥蛇島離島50年記念誌』より)

学校は島社会にとって重要な施設で、先生も地域社会に溶け込んでいます。私も子どもの頃、親に言われて野菜や魚を教員住宅に届けたりしました。夜は先生の家に勉強や珠算を教えてもらいに通ったりもしたものです。島の子供たちだけでなく島の生活や将来のために貢献した先生方もたくさんいます。その代表が「臥蛇の入道先生」こと比地岡栄雄(ひじおかえいお)(1907ー1998)です。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その125《臥蛇の入道先生》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その124《立神》渡辺幸重

沼島の上立神岩(淡路島観光協会サイトより) 沼島の上立神岩(淡路島観光協会サイトより) https://x.gd/UpUaM

伊豆諸島と小笠原諸島の間の海上に天に向かって直立する大きな岩があります。孀婦(そうふ)岩と呼ばれるその岩を見たとき私は神々しさを感じました。信仰深い昔の人はもっと感じたことでしょう。全国には矛先のように屹立する大小の岩礁を「立神」と呼んで信仰や神話の対象としているところがたくさんあります。

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連載コラム・日本の島できごと事典 その123《海に沈んだ島》渡辺幸重

瓜生島の想像図(『海にしずんだ島-幻の瓜生島伝説-』より)

大分市の西北2kmほどの別府湾内に400年ほど前まで瓜生島(うりゅうじま)という島があったという言い伝えがあります。瓜生島は東西3.5km、南北2km以上という大きさで、12の村があり、沖の浜と呼ばれる港町には家千軒が建ち、約千人が住んでいました。室町時代頃から豊後国最大の貿易港だったともいわれます。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その123《海に沈んだ島》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その122《人名制度》渡辺幸重

本島・笠島集落(重要伝統的建造物群保存地区)

瀬戸内海の岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ香川県側の島々が塩飽(しあく)諸島です。ここはかつては塩飽水軍の本拠地であり、戦国時代から明治期初めまで住民自治が行われた地域です。塩飽諸島は全部で28島(うち有人島13)あるといわれ、特に「塩飽七島」と称される櫃石(ひついし)島・与島・本島(ほんじま)・牛島・広島・手島・高見島が諸島の中心をなしています。

塩飽水軍は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦いに海の戦力として貢献しました。秀吉の九州攻め(九州平定)では50人乗の船10艘を各船に水主(かこ)5人を付けて差し出し、秀吉の高い評価を得ました。その後も秀吉の後北条氏攻撃に大坂から小田原へ兵糧米を積み送り、また朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも医師や奉行、物資の運送に従事しました。秀吉は1590(天正18)年に塩飽諸島の検地をするとともに塩飽水軍の業績を認め、島中(とうちゅう)の船方(水夫)650人にその領知を認めて自治を認めました。江戸時代は幕府領で、大坂町奉行や大坂船手などの管轄下にありましたが、自治制度として「島中船方領知」は江戸時代から明治初期まで引き継がれました。この水主役を負担する船方を「人名(にんみょう)」と呼び、島の領知権や周辺海域の漁場の権益を人名株、制度を人名制度といいます。ただ、株を持たない漁師らは「間人(もうと)」と呼ばれ、激しく差別されたともいいます。幕末に増加した水夫役の徴用を人名が間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもあったようです。

本島の小阪(旧小坂)地区の墓地に幕末に起きた「小坂騒動」の犠牲者18人の名前が刻まれた小さな石碑があります。移住者が多くよそ者として差別を受けていた小坂の漁師たちは2株の人名株を要求しましたが受け入れられず、1868(慶応4)年、泊地区の勤番所を襲って家々を打ち壊し、この衝突で双方に死傷者が出ました。人名はその報復として他の島々の加勢も得て小坂を焼き払ったといいます。

人名制度は1870(明治3)年に倉敷県が「藩制改革により塩飽の領知高を没収し、朱印状はこれを還納すべし」と命じ、終焉を迎えました。1880(同13)年に2,300円余の一時金が支払われたあとは何の要求も認められなかったそうです。

人名の多くが住んでいた本島の笠島集落には粋を凝らして建てた屋敷が並び、1985(昭和60)年に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に指定されました。

連載コラム・日本の島できごと事典 その121《通信制高校》渡辺幸重

メタバース空間内の教室(勇志国際高校)

国全体の人口減少が問題になっていますが、特に島では過疎化が進んでいます。そのため小中学校の統廃合も多く見られますが、一方では通信制高校の本校を島嶼部に置く学校法人がいくつかあります。島の自然や地域社会の教育力が評価されているのです。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その121《通信制高校》渡辺幸重

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連載コラム・日本の島できごと事典 その96《ごみ騒動》渡辺幸重

<国内最大級の産業廃棄物の不法投棄により、「ごみの島」と呼ばれた瀬戸内海の離島・豊島(てしま)=香川県土庄(とのしょう)町=で、20年余りに及んだ処理事業が終了し、県が30日、現地を公開した。>
 これは今年3月31日の毎日新聞朝刊に「香川・豊島 ごみの山消えても残る地下水汚染 産廃処理事業終了」という見出しで掲載された記事の冒頭部分です。豊島は四国・高松港の北約12kmの瀬戸内海に浮かぶ島で、四方を島に囲まれた多島海美の中にあります。1970年代後期からこの島に有害産業廃棄物が大量に投棄されるようになり、住民に健康被害が出るようになりました。島の住民は激しい撤去運動を繰り広げ、2003年に成立した産廃特措法に基づいて2019年7月までに総計約91万3,000トンの廃棄物と汚染土が豊島の西約4㎞にある直島に運ばれ、香川県が建設した「直島環境センター中間処理施設」で焼却・溶融化処理されました。そして今回、汚染地下水を浄化する高度排水処理施設の整備や整地作業が終わり、「わが国初の汚染地修復の国家的取り組み」と言われた処理事業が完了したと報道されたのです。
 ちなみに、廃棄物と汚染土の総量は毎年処理対象量の見直しがあり、2012年7月には最大の93万8,000トンが見込まれましたが、2017年に搬出がいったん完了したあとに発見された産廃・汚泥を含めて最終的な量は処理約91万3,000トンとされています。 MORE

連載コラム・日本の島できごと事典 その49《ユネスコ「消滅危機言語」》渡辺幸重

2009年(平成21年)、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は世界で2,500の言葉を「消滅危機言語」として発表しました。世界に6000~7000の言語がありますが、各地でマイナー言語 (規模の小さな言語) が消滅の危機にあり、このままでは100年のうちに半数が確実に消滅し、最悪の場合はいまの10分の1~20分の1にまで減るといわれます。ユネスコは日本では8言語・方言を取り上げ、アイヌ語を「極めて深刻」とし、八重山語(八重山方言)・与那国語(与那国方言)を「重大な危機」、八丈語(八丈方言)・奄美語(奄美方言)・国頭(くにがみ)語(国頭方言)・沖縄語(沖縄方言)・宮古語(宮古方言)を「危険」と認定しました。アイヌ語・八丈語以外は沖縄・奄美地方の言語になります。「言語の多様性は人類を豊かにしている」としてその価値を訴え、継承していく活動が起きていますが、マイナー言語はこれからどうなっていくのでしょうか。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その49《ユネスコ「消滅危機言語」》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その42《国境離島》渡辺幸重

領海とEEZ(海上保安庁)

近年、日本政府や政治家が急に使い始めた言葉に「国境離島」があります。領海や排他的経済水域(EEZ)などの線引きを行う際に管轄海域の根拠となる基線は国連海洋法条約で「沿岸国が公認する海図に記載される海岸の低潮線等」と定められています。日本は島国ですからその基線となる小島や岩礁がたくさんあります。1987年(昭和62年)の海上保安庁『海上保安の現況』によると、日本にある島嶼は本州島なども含めて6,852島(周囲100m以上)です。このうち、有人60島、無人465島の計525島が「国境離島」とされます(北方四島・竹島地域を除くと484島)。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その42《国境離島》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その36《島の高級ホテル》渡辺幸重

浜名湖ホテル

「島の高級ホテル」というと、最近次々にオープンしている沖縄の外資系ホテルを思い浮かべるでしょうが、今回は静岡県の島で開業した戦前と戦後の二つのホテル「浜名湖ホテル」と「淡島ホテル」を紹介します。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その36《島の高級ホテル》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その35《野島断層》渡辺幸重

野島断層「ひょうご観光本部」HPより

 1995年(平成7年)117日・火曜日・0546分、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生しました。この直下型地震はマンションやビルを倒し、高速道路や鉄道、ライフラインを分断し、火災を起こし、神戸市を中心に死者6,434人・行方不明者3人・負傷者43,792人・住家被害約64万棟という甚大な被害をもたらしました(消防庁調べ、2006519日確定値)。これが「神戸・淡路大震災」です。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その35《野島断層》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その33《霊場・松島》渡辺幸重

雄島の岩窟(宮城県の観光情報マガジン『GOGO MIYAGI!』より) https://gogo-miyagi.com/45

日本三景といえば、松島・天橋立・宮島です。奥州の松島は、松島湾内外に300近い島々を浮かべ、白から灰白色の岩肌と松の緑の景観から国内屈指の観光地になっています。江戸時代から景勝地として知られる松島ですが、その前は“奥州の高野(こうや)”と呼ばれ、死者供養の霊場だったことをご存知でしょうか。
松島湾北西部にある雄島(おしま)は「松島」の名称発祥の地で、後鳥羽上皇から送られた千本の松をこの島に植えたことから「千松島(ちまつしま)」と呼ばれ、さらに広がって一帯が「松島」と呼ばれるようになりました。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その33《霊場・松島》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その32《日本初ネイティブ英語教師》渡辺幸重

トーテム・ポール型のラナルド・マクドナルド上陸記念碑(「ウィキペディア」より)

鎖国時代の1848年(嘉永元年)、一人のアメリカ青年が北海道北西側の日本海に浮かぶ焼尻島の白浜に上陸しました。もちろん密航です。青年の名はラナルド・マクドナルド。ニューヨークから捕鯨船に乗り込み、樺太沖から単独ボートに乗り換えて焼尻島に上陸したのです。彼の母親はネイティブアメリカンで、肌が有色のため差別を受けていたマクドナルドは、母方の親戚から自分たちのルーツは日本人だという話を聞いて日本にあこがれ、日本行きを決意したということです。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その32《日本初ネイティブ英語教師》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その31《自然と共生する野生馬》渡辺幸重

ユルリ島の道産子(「根室・落石地区と幻の島ユルリを考える会」HPより)

北海道東部・根室半島の付け根付近の南岸沖にユルリ島という無人島があります。絶滅危慎種の貴重な海鳥が多く繁殖し、希少な高山植物も多い自然豊かな島です。その島に人間が放した馬が野生化して棲んでいます。一般に人間が島に持ち込んだ外来動物は島本来の自然を破壊するものとして駆除の対象になりますが、ユルリ島の馬はいったん絶滅策がとられたものの最近、人の手によって増やそうという活動がみられます。「自然と共生する野生馬」だというのですが、それはなぜでしょうか。 続きを読む 連載コラム・日本の島できごと事典 その31《自然と共生する野生馬》渡辺幸重

連載コラム・日本の島できごと事典 その30《在沖奄美人》渡辺幸重

奄美群島復帰五十周年(2003年)記念切手

第二次世界大戦後、北緯30度線がかかるトカラ列島・口之島から南が日本から分離され、サンフランシスコ講和条約で日本が独立してからも米軍政下に置かれました。奄美群島もそのひとつです。奄美大島日本復帰協議会などが激しい祖国復帰運動を展開し、奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本復帰を果たしました。そのとき、沖縄には6万人を超える奄美群島出身者が生活していました。沖縄の日本復帰は1972年(昭和47年)5月15日のことです。この間、米軍政下の沖縄に住む奄美群島出身者いわゆる“在沖奄美人”たちは“本土日本人”でもない“外国人”扱いを受け、いわれのない差別を受けました。
かつて琉球国の一部だった奄美群島は薩摩の琉球侵攻後には直轄支配され、明治以降は鹿児島県に属しましたが、米軍政下では日本本土と遮断され、沖縄島に移住した人も多かったようです。沖縄で活躍する奄美群島出身者も多くありました。琉球政府行政副主席兼立法院議長の泉有平、琉球銀行総裁の池畑嶺里、琉球開発金融公社総裁の宝村信雄、琉球電信電話公社総裁の屋田甚助などです。ところが、奄美群島の日本復帰後、これらの人たちは公職追放の措置を受けました。そればかりでなく、公務員として働く多くの出身者も職を奪われたのです。在沖奄美人の参政権・土地所有権も剥奪され、本土日本人に与えられた政府税の外国人優遇制度も認められませんでした。社会的な差別意識も広がりました。佐野眞一『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史<上>』には次のような内容の沖縄奄美連合会会員の言葉があるそうです。
「奄美人は沖縄に土地を買えませんでした。まともな職にも就けなかったから安定した生活をするのは無理でした。銀行も金を貸してくれません」「僕も奄美出身ということがすぐわかる苗字で、随分いじめられました。復帰前も復帰後も"奄美と宮古(宮古島出身者)はお断り"と言われて、奄美出身者はアパートにも入れなかったのです。」
ちまたでは「奄美出身者は奄美に帰れ」との声が広まり、沖縄市町村長会もこれを要望したとのことです。いま日本本土による沖縄差別の問題に心を痛める私としては信じられないほどの状況です。
ときの権力者は一般社会の貧困や歴史による重層的な差別意識をあおって差別政策を推し進めます。突き詰めて考えると江戸幕府の身分制度によって部落差別が生まれたように権力構造や現代の社会構造の中に差別が埋め込まれているように思えます。自分たちの心の中の差別意識を見つめるとともに権力や社会をどう変えていくか、考えていきたいと思います。

連載コラム・日本の島できごと事典 その29《大島郡独立経済(分断財政)》渡辺幸重

大島郡地図

国の税制は、財源が不足する地方自治体に対して国税の中から地方交付税を交付し、税収が少ない自治体が運営できるようになっています。いわば、金持ちの自治体住民・企業から取った税金を貧乏な自治体に回しているということです。2020年度に国からお金をもらわなかった自治体(不交付団体)は都道府県では東京都のみ、市町村では75ありました。東京都民のなかには「自分たちのお金を地方に取られる」という人もいますが、そうではありません。地方で子どもを育て、都会の大学に通わせて一人前にした費用は地方に還元されていません。地方出身の東京都民は自分たちの税金の一部が故郷に還元されることを希望しているはずです。実際、第二次世界大戦直後までは都会で働く多くの地方出身者は故郷に仕送りをしていました。
さて、地方交付税がなくなれば地方はどうなるでしょうか。1888年(明治21年)から1940年(昭和15年)まで似たような状態にされたのが鹿児島県大島郡です。奄美大島など奄美群島が対象になりますが、1897年(明治30年)から1973年(昭和48年)までトカラ列島(旧十島村)も大島郡に所属したので(その後鹿児島郡)、10年目以降は奄美群島とトカラ列島が対象でした。この財政制度を「大島郡独立経済(分断財政)」といいます。これにより、鹿児島県と大島郡の財政が分離され、大島郡は自給自足的な小規模な財政運営を強いられました。この分断経済は鹿児島県がやったことですが、明治政府は1901年(明治34年)に砂糖消費税法を制定し、沖縄・奄美の砂糖に課税しました。日清戦争(1894~95)後の財政需要の増加を満たすのが目的です。これらの差別的・棄民的政策がとられたため、奄美群島・トカラ列島の産業基盤は整備されず、人々の生活は“蘇鉄地獄”と呼ばれるほど疲弊する状態に陥りました。やっと大島郡産業助成計画・大島郡振興計画による振興事業が始まったのは1927年(昭和2年)のことで、天皇の大島行幸で注目が集まってからです。“島差別”を“天皇の恵み”にすり替えるとはなんとひどいことでしょう。太平洋戦争もそうですが、日本という国は過去の過ちを一度も総括していないのではないでしょうか。
大島郡独立経済を実施するときの鹿児島県議会での討論では、「大島郡の島々は絶海に点在して内地から二百里離れて交通が不便で、さらに風土・人情・生業等が内地と異なるから経済を分別する」とされました。ある研究者は「それなら“大島県”にして明治政府の補助を受ければよかった」といいます。そして、本当の理由は「内地の産業基盤整備事業に莫大な資金が必要になり、大島の産業基盤整備にまで手が回らなくなった」と指摘しています。薩摩藩による“黒糖地獄”時代の奄美搾取に続き、またもや“中央のための犠牲”を押しつけられたのです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重

 1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。
明治期になって薩摩藩統治時代が終わっても鹿児島県は砂糖の独占販売を継続しました。1872(明治5)年に設立された大島商社が黒糖販売を支配し、1879(明治12)年の大島商社解散まで続いたのです。その間、奄美の人々は黒糖の自由販売を求める運動を続けましたが、鹿児島に向かった陳情団が牢に入れられたり、西南戦争への出兵を命じられて35人のうち20人が戦死または行方不明になるという理不尽なこともありました。
奄美の黒糖は薩摩藩の有力な財源となり、財政難から逃れて明治維新の基礎を作りました。私は、薩摩藩の奄美搾取がなかったら明治維新はなかったと考えます。九州の南から台湾にかけて連なる琉球弧(南西諸島)の島々の歴史は日本の歴史そのものです。特に、九州と沖縄の間に埋もれがちなトカラ列島・奄美群島の歴史は日本社会の“質”を考えるとき大きな示唆を与えるということを忘れないでください。