「取材手帖」カテゴリーアーカイブ

Gallery 609studio《晩秋の出雲街道》片山通夫

出雲街道とは主に播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、出雲国松江(島根県松江市)に至る街道のことを指す。出雲往来、雲州街道などともいう。他に、広島県・島根県内では石見銀山街道の尾道から赤名(現在の島根県飯南町)にかけてのルートや、それに三次で接続する広島方面からのルートを指すこともある。 (ウイキペディア)
写真は出雲街道新庄宿、がいせん桜通り。がいせんとは「凱旋」のことで、日露戦争の戦勝記念で街道の両脇に植えられた。この通りは出雲街道の宿場町で、参勤交代の松江藩主などが休息する本陣や脇本陣等があり、かつては大いに賑わった。
秋の歌
「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」定家

 

 

 

 

Gallery 609studio《奈良・今井町 1》片山通夫

奈良県・橿原に今井町というところがある。一向宗の布教拠点として生まれ、寺内町として発展した。寺内町(じないちょう、じないまち)とは、中世後期から近世前期の日本において、浄土真宗により建設された仏教寺院・道場(御坊)を中心に形成された自治集落のことである。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。寺内町の呼称は町の全域が寺院の境内とみなされたことから生じたもので、参詣者相手の商業地として寺院の境外に形成された門前町とは異なる。 天文年間(1532~55)、本願寺の今井兵部によって建てられた称念寺が、今井町の起こりと言われて、農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進めるためだった。後には、諸国の浪人や商人が集められ、町場を形成しました。このような町を寺内町と呼ぶ。世は戦国時代。野武士、盗賊、他宗派、大名などからの攻撃を避ける為に、周辺に濠と土居を巡らせ、僧侶や門徒を守るための武力が備えられました。見通しのきかない筋違いの道路や、九つの門跡がそれを物語っている。(橿原市HPなどから)

Gallery 609studio《地獄絵図・恐山》片山通夫

恐山では恐山大祭と恐山秋詣りの折に「イタコ」と呼ばれる人たちが集う。そしてそのイタコに「口寄せ」を頼む人たちもまた大勢集う。周りの風景から感じるのはさながら地獄絵図。いや死者の声を聴こうとする人々の煩悩渦巻く光景といえるかもしれない。写真はその恐山地獄。

 

小さい旅:片山通夫

夏の終わりのある日。ふらっと電車に乗った。鞍馬へ行く叡電(えいでん)。貴船口という駅が途中にあった。清流が流れていて京都の奥座敷とでもいうべき小料理屋が軒を連ねている。夏なら素麺流し。電車はとことこともみじのトンネルを抜けて天狗と牛若丸で有名な鞍馬まで。   叡電

モノローグ《真冬の渡岸寺観音堂(向源寺)》片山通夫

どうがんじかんのんどう(こうげんじ)と読む。断じて「とがんじ」ではない。滋賀県湖北の高月町にある。この寺の十一面観音は、日本全国に七体ある国宝十一面観音の中でも最も美しいとされる。確かに美しい。案内してもらった方に「色っぽい」と感想を述べたら苦笑された。妖艶なのだ。筆者の心の歪みだと思うが・・・。観音像の写真はインターネットから借用。

現代時評plus《特攻隊員と自爆隊員》片山通夫(写真も)

いささか古い記事だが1月4日、共同通信がイスラマバードからのニュースとして次のように伝えた。
《「タリバン、自爆攻撃部隊編成へ 国軍内に、過激派対策」か
この記事を読んで私は「先の戦争(いやな表現だ)」での特攻隊員を描いた映画「ホタル」を思い出した。この映画は当時日本の植民地だった朝鮮半島の若者が特攻隊員として帰ってこなかったところから物語は始まる。ここで映画のストーリーを書くことは出来ないが、朝鮮の若者が「決して望んで」特攻隊に志願したわけではないことを強く感じた。

参考:ホタル⇒ウイキペディア  続きを読む 現代時評plus《特攻隊員と自爆隊員》片山通夫(写真も)