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現代時評《歪(いびつ)な日本》片山通夫

最近の報道によると、中国電力が中間貯蔵地の建設調査を山口県・上関町に要請し、町長はこれを容認したらしい。容認の理由は「町は急速に疲弊が進み、就任以来強い危機感を抱いている」というから、いわゆる原発マネーをあてにした「容認」だと言える。

ともあれ、地方の町はすべからく人口減とそれに伴う財政難に苦しんでいる。無論例外はある。有名な観光地を控えている大都市周辺の町や、国際空港に隣接していて、税収がある町など、特別な状況にある町、それに東京のように人口が集中している大都会なども、経済的には裕福だ。この傾向はいわゆる高度経済成長の時代の弊害が今に起こっているのだと思う。一極集中する首都・東京から先日京都に文化庁が引っ越してきた。しかし東京の中央官庁の一部門が越してきても、役人はせっせと東京に通うだけだろう。

こんな話をだいぶ以前に韓国の地方の町で聞いたことがある。李氏朝鮮の時代、首都ソウルから地方には日本でいう「代官」が派遣されていた。競争社会である官僚たちは地方の民の生活をよくすることには目を向けないで、己が出世だけを目標として、中央ばかりを見ている。おのずから地方は搾取の対象として疲弊してゆく。民は苦しむばかりだったという。

今の我が国も同様の状況だと言える。先に述べた上関町のケースを見ても決して経済的には裕福な地域ではないだろう。人口は減るばかりで税収も乏しくなる。そんな中での原発の廃棄物の中間貯蔵の容認とはいささか悲しい。「町を壊す」、「金ないんじゃけ…」と地元は対立した。一方東京だが明治神宮外苑の多くの樹木を伐採し、ビルやスポーツ施設などを建設する計画がある。東京はますます大きくなってゆく。

地方に対する手当を早急にすべきだ。あまりにも不均衡な状態では国力も衰える。太平洋岸のベルト地帯だけが日本となってますます他は衰えてゆき、高年齢者は死ねばよいなどと荷物扱いする輩が大手を振って歩くく日本にはしたくない。原発マネーで生き延びる町など決して美しくもうれしくもないと思う。そうせざるを得ない日本を憂う。

すでに我が国は歪(いびつ)になってしまっている。

現代時評《敗戦の朝に思う》山梨良平

1945年8月14日ホワイトハウスにて日本のポツダム宣言受諾を発表するハリー・S・トルーマン米国大統領

1945年8月15日正午、天皇はラジオで放送された「玉音放送」で、日本政府が前日に決めたポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表された。ポツダム宣言とは7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言を指す。
https://onl.tw/RyBd6Hm

当初、日本政府はこの「無条件降伏せよ」との宣言を軍部の圧力で無視することとした。その後、アメリカはヒロシマに6日、ナガサキに9日原爆が投下した。つまり簡単に言うとポツダム宣言を無視する日本政府に業を煮やした連合国は戦争を終結させるために原爆を投下したと言うことになる。おかげでヒロシマもナガサキも今に至るまでその傷跡に苦しんでいる。

歴史に「もし」は禁句だが、「もし、7月中にポツダム宣言を受諾」していれば、おそらく原爆は投下されなかった。この「無条件降伏」とは、1945年7月26日のポツダム宣言を受け入れると言うことで、この宣言には全日本国軍隊の解体のほか、軍国主義の破棄、本土の占領などの諸条件が課せられていた。これらの条件を国家として無条件に受け入れることを要求されたのである。なかなか軍部は納得できなかっただろうと思う。何しろ国民の命よりも国体と言う意味不明のモノを尊ぶ思考だったからだ。
https://onl.tw/axQFV6w

この戦争で無条件降伏をしたはずの日本だが、実際は国際政治の波に翻弄される。最初の波は今もその影響を引きずっている、A級戦犯だった岸信介を米国の都合で戦犯から解除されて利用された。またその孫である安倍晋三は岸信介の跡を継いで日本の政界を渡り歩き首相にもなったが凶弾に倒れた。岸が絞首刑を免れ天寿をまっとうできたのに、孫の安部は凶弾に倒れたのは皮肉だ。
今一つは日本の戦後の復興も朝鮮戦争でもたらされた。朝鮮戦争特需で日本は生き返ったという。

話を戻す。欧州ではドイツが、東南アジアではベトナムが、そして東アジアでは朝鮮がそれぞれ南北に分断されて同じ民族がにらみ合った。朝鮮半島ではいまだに分断国家としてにらみ合っている。これらの歴史は読者にとっても周知の事実なのでこれ以上は書かないが恐ろしくも残念なことである。

そして2023年8月15日を今日迎えた。日本はこの78年の間に何を学んだのだろうか。確かにいわゆる平和憲法を手に入れた。一部ではアメリカの押し付け憲法だと言われながら。
どうも日本人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」傾向がある。もっと言えば「あったことをなかったこと」のようにふるまう。いや、あったことすら忘れてしまうようだ。そして都合の悪いことは隠ぺいする。最近この傾向が顕著だ。たとえば昨年7月、岸信介の孫が凶弾に倒れた。その国葬を大方の国民の反対を押し切って岸田内閣は閣議だけで決定し実行した。このほど共同通信が情報公開請求した安部氏の国葬の出席者名簿の氏名は74%黒塗りだったと明かした。出席者の7割以上を隠さねばならない国葬って恥も極まれりだ。
比べてはまことに失礼ながら、同じ国葬でも英国のエリザベス女王の場合とつい比べてしまう。

最後に、台湾を訪れた麻生自民党副総裁は台北で講演し「台湾海峡の平和と安定には強い抑止力を機能させる必要があり、そのために日米や台湾には《戦う覚悟》が求められている」と述べただ。中国はもとより、台湾をいさめて戦争の回避を探るべきだと述べるのならともかく、煽ってどうするつもりだ。無責任な自民党副総裁である。

筆者は、8月15日の朝を迎えて、78年と言う歳月はここまで政治を劣化させると感じながら、戦争犠牲者の冥福を静かに祈りたい。 合掌
◇参考
ジャーナリスト桐生悠々(1873~1941年)が執筆し、1933年8月11日の信濃毎日新聞に掲載された「関東防空大演習を嗤ふ」全文

現代時評《これでも戦争しますか?》片山通夫

「終戦(敗戦)の日」を1週間後に迎えて、いや明日はナガサキ(1945年8月9日午前11時2分。)に原爆が投下された日。先日のヒロシマと言い悲惨な戦争だった。改めて平和を誓う現代時評にしたい。

先の戦争を経験された人々、つまり兵士は無論、空襲にあわれた人たちの記録などを見ていると戦地では「弾も食料もなく、亡くなってゆく兵士たち」の類の悲惨な話をよく聞く。
また満州国とやらを建国し、最後にソ連軍が攻めてきた時には日本軍はすでに、転進と言う名の逃亡をし、残された国民は散々な目にあったという話も聞く。国民はソ連兵の傍若無人の略奪に恐れおののいたという。

最近、安倍内閣以来、現在の岸田内閣に致るまで、世界に誇れる日本国憲法を戦争を出来る憲法に変えようとする動きが顕著だ。たとえば、暗殺された安部元首相は「自分たちが専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているわけではない。いじましいんですね。みっともない憲法ですよ、はっきり言って。それは、日本人が作ったんじゃないですからね。そんな憲法を持っている以上、外務省も、自分たちが発言するのを憲法上義務づけられていないんだから、国際社会に任せるんだから、精神がそうなってしまっているんですね。そこから変えていくっていうことが、私は大切だと思う」とインターネット番組で話したという。(朝日新聞・2012年12月14日)
しかし筆者はこのような風潮を憂える。危惧する。

たとえば「台湾有事」が言われている。日本も参加する勢いで「台湾有事」を捉えている向きもあるくらいだ。こんな時、戦争に巻き込まれたら、もしくは岸田首相が閣議で決めてしまった「敵基地先制攻撃」を行使したら、日本は戦争に参加することになる。
一歩下がって冷静に日本のおかれている今を考えて見てほしい。
輸入大国日本にはは食料自給率38%(農水省)しかないという。海を遮断されたら食料も原油も入ってこない。原油輸入には長いシーレーンが控えている。石油備蓄は約7,655万klで約244日分(2021年3月末現在)。どの国がこの長いシーレーンを越えて原油を日本に運んでくれるのか?

高齢化率は28.4%となっていて若者の世代が減少している。
極論だがオリンピックや万博など、多大な費用がかかる国際イベントはやめることが我が国には重要だ。つまり浮かれている状況には我が国はないと思う。
今、ロシアがウクライナで戦争している。無論ウクライナも反撃していて日々伝えられる状況は泥沼の悲惨な状態だ。あんな状況に日本がおかれたら、古都奈良や京都、鎌倉ならども吹っ飛びそう。いやそれよりも54カ所あるという原発が危ない。

もうかなり以前だが、筆者はロシア沿海州のウラジオストックの目の前に日本海が広がっている海辺にいた。夕方だったかと思う。三々五々、人々は思い思いの姿で海辺を散歩していた。一人のロシア人男性が筆者を捕まえてこれが「太平洋」だと言った。「いや、この海は日本海だ」と言ったが彼は「太平洋」だと譲らない。「この海の向こうには日本がある」というと「アメリカだ」と。つまり彼の頭では日本の国土なんて取るに足らない小さな島だということのようだ。(あー、腹立つ!)

町の声から。石油も天然ガスも石炭もウランも輸入!エネルギー資源のない日本は、エネルギー資源輸入ができなくなれば、餓死者が出る!戦争が起きれば、1年かからずスマホが止まり、交通も物流も電気もガスも水道さえ止まる!戦争しちゃいけない国が日本だ!

それでも戦争しますか?

◆現代時評plus《虚構の国・日本》片山通夫

大阪万博開催日まであと2年を切った。巷間言われているように、外国の出展が順調でない。パビリオンの建設申請が7月半ば時点でゼロだという。一方で同万博の前売り券を関西企業に200億円分購入依頼が協会からなされた。また大人約5000円と想定していた入場券の基本料金を、7500円に引き上げられた。ウクライナとロシアの戦争に端を発した物価上昇と人材不足があいまって万博の開催が危ぶまれている。
一方大阪府・市が実現を目指すカジノを含む統合型リゾート(IR)について「2029年の開業が難しいというのは当事者の共通認識」と述べ、開業時期のずれ込みに言及した。

この夏、汚染水を処理水と言い換えて、得るはずの地元の了解を得られないまま1キロ先で海に流すと東京電力と岸田政権は決定したようだ。当初は地元の理解を前提にと言っていたがどうも強硬する姿勢である。筆者が気になるのは「汚染水」を「処理水」と言い換える事だ。この国には「侵略」を「侵入」と表現し「退却」を「転戦」と言い換える便利な文化」を持つ。

どうもここ10年余りの日本の政府は自分たちの「利益や保身」を最優先して、大多数の国民の利益を考えることはなかったようだ。だから最近多い豪雨や台風の被害など自然災害にもあまり目を向けてこなかった。そして遂には旧統一教会と結託したと言ってもいい位の仲で信者の過程を崩壊させる「安部広告塔」となって信者の家族に謀殺された。
しかるに自民党の内部では「安部の神格化」を目論んでいるようだ。安倍晋三元総理留魂碑の建立がその形として表れている。

このような「虚構の世界」に身をおいて生きている自民党の面々は決していま我が国がおかれている悲惨な現実を真正面から見ようとしない。少子高齢化、食料自給率38%、北朝鮮にも劣る宇宙ロケットの技術、旧統一教会問題、福島原発の汚染水、最近はマイナンバーカードのドタバタ・・・・。挙げればきりがない。

まさに「虚構の国・日本」に棲む政治家、財界人そして官僚・・・。

現代時評《公文書》片山通夫

公文書危機 闇に葬られた記録(毎日新聞)

公文書等(国の行政文書等)は国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録であり、国民共有の知的資源です。このような公文書等を適切に管理し、その内容を後世に伝えることは国の重要な責務です。(内閣府公文書管理制度

この「適切に」管理し・・・と文言通りに行かないのが我が国の現状だ。文春で「今、公文書を軽視する風潮がひろがっている」と痛烈に批判したのは福田康夫元首相だ。
今年(2023年)3月の国会での質疑で高市経済安全保障担当大臣が、総務省の公文書を「まったくの捏造だ」と批判して波紋を呼んだことは記憶に新しい。この文書の作成当時高市氏は総務大臣だった。また、安倍晋三政権下では「森友学園問題」や「加計問題」、さらには「桜を見る会」をめぐっても、公文書の改ざんや破棄がおこなわれていたことが発覚している。

こうした事態を福田康夫元首相は「文藝春秋」誌上で「公文書は『国家の証し』そのものである」としたうえで、近年の政治家の「権力の用い方」に大きな懸念を表明し警鐘を鳴らした。

福田氏は〈まず最初に強調しておきたいのは、公文書は「国家の証し」そのものである、ということです。わが日本国がどのように成り立ち、国家の仕組みや制度がどんなふうに出来上がってきたのかを証明する大切な証拠なのです。私は若い頃、アメリカの公文書館が膨大な文書を保管し、きちんと公開していることを目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。民主主義国家の底力を見た思いがしました。そこで、私が官房長官と総理大臣の頃、公文書管理法の制定に道筋をつけたのです。ところが、近年公文書を政治家が「捏造」と決めつけるとか、官僚が改ざんをするといった、とんでもない事件が立て続けに起きた。(中略)これは「権力の行使」に大きな問題があると考えられます。さらには「政治主導」に起因する問題もあります。〉

安部政権時代は政治家が中央省庁の官僚を「顎で使い」、言うことを聞かない官僚は「内閣人事局」管理しだした。この制度は政治家が官僚を意のままに動かすという制度にもなり、まさに安部政権とそれに続く現政権まで公文書管理の面でもいわゆる「忖度」ということが横行している。筆者など安部政権時代にはじめて政治の場での「忖度」ということがあると知って驚いた記憶がある。

先に述べた高市氏の「公文書は捏造だ」と国会で述べた答弁は高市氏の心に頭にこびりついた「安部時代からの垢」なのかもしれない。高市氏は国会の追及を「捏造」という言葉で乗り切ったつもりだろうが、その発言の記録は永久に残る。きっと招来に恥ずかしい思いをすることだろう。

現代時評《傭兵会社ワグネル》片山通夫

盤石の体制だったと世界が考えていたロシアのプーチン体制の一角がほころび始めた。周知のように民間軍事会社ワグネルの「一日反乱」が起こったのだ。ワグネルは19世紀ドイツの作曲家のリヒャルト・ワグナーのロシア語。ちなみにウクライナで活動中の民間軍事会社の名称にモーツァルト・グループというのがある。ワグナーにしろモーツアルトにしろ迷惑だろうな。所でそもそも傭兵の歴史は古いようだ。
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モノローグ・コロナの日々《あなたの価値観を私に押し付けないで》片山通夫

同性婚に関する裁判や性的少数者(LGBTQ)の理解増進法などになんとなく、しかし長い間、違和感を覚えていた。それが何なのか、自分でも自覚できなかった。それが今朝すっと、いわゆる胸のつかえがとれた。
国が、国家権力が個人の生き方に干渉しているからなのだと気が付いた。まったく余計なお世話なのだ。これと「差別する」ということはまったく違うということを書き添えておく。気をつけなくてはいつの間にか個人の生活、もしかして尊厳にまで国家が干渉しだす。東京新聞の2023年6月26日の記事に「 LGBTQ権利擁護の大パレード、NYで観衆200万人「他人の価値観をコントロールしようとしないで」 という記事があった。
言葉を換えれば「あなたの価値観を私に押し付けないで」だ。(掲載は不定期です)

モノローグ・コロナの日々《梅雨の中の七夕と伝統的七夕》片山通夫

子供の頃はこんな七夕の夜が恋しかった。

昔、小学生のころ、七夕祭りはいつも雨か、うっとおしい日の連続だった。何しろいわゆる梅雨のさなか。降らない方が不思議な時期だった。そして8月に絢爛に行われる仙台の七夕祭りがうらやましかった。そしてなんて頭のいい人が考えたのだろうと長い間そう思っていた。しかし本来は旧暦の7月7日が正しいのだと気が付いた。変に新暦に「語呂合わせ」をするからいたいけな小学生を悩ますのだ。
太陰太陽暦は、明治6年に現在の暦が採用されるよりも前の暦で、現在は公には使われていない。このため、伝統的七夕の日は、太陰太陽暦による7月7日に近い日として、以下のように定義された。
つまり二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目が「伝統的七夕」の日という。

さて今年は8月22日がその日に当たる。そんな先なら忘れてしまいそう。

モノローグ・コロナの日々《プーチン 大変!》片山通夫

外国の干渉が間接的せよ、直接席的にせよ、うるさいのかプーチン大統領の腰がなんとなく定まっていないように感じる。BBCは「ベラルーシ大統領、プリゴジン氏の到着を発表し亡命を歓迎 ワグネルに基地提供と」、「プリゴジン氏、ロシア軍トップ2人の拘束計画 米紙」などと姦しい。
いずれ一枚岩でなく、一癖も二癖もある3人のにらみ合い。我々凡人にはまったく先が読めない。言えることは「プーチン 大変!」だ。

現代時評《騒乱 マイナンバーカード》山梨良平

この稿を書くにあたって、例によって「騒乱」の意味を辞書で調べてみた。「騒乱」とは「事変が起こって、社会の秩序が混乱すること。 また、そのような事変。」を指す。
ロシアでは、ワグネルのクーデターもどきがおさまって一息ついているようだが、ロイター通信が《世界は「プーチン後」に備えを、ワグネル反乱で動き始めた時計》とコラムに書いた。何はともあれ、水面下では単に収まったとは言えないようだ。
所で我が国の「騒乱」だが、現在のところマイナンバーカードに尽きるようだ。ほとんど毎日と言っても過言ではなさそうな騒ぎになっている。とうとう「返納騒ぎ」だ。政府も巨額の予算を使って始めたカードなのだから、今更「はい、そうですか」と撤回するわけには行かないのだろう。しかしことは国民の安全(健康)にかかわる事態になってきた。来秋には「紙の保険証」をマイナンバーカードに切り替えると言うのだが、なかなか実際はそうは行かない事態だ。

ここで筆者が把握できたトラブルを挙げておく。 (順不同)
*本人ではない家族名義の口座 13万件
*別人の公金受取口座 748件
*マイナンバーカード保険証に別人の情報 7300余件
*別人の証明書発行など
*預金口座の氏名の「ふりがな」がなく、漢字のみが登録

国民の矛先は河野デジタル相に向かっているようだが、根本原因は政府の計画性と融通のなさだろう。過去にも「一旦決めて予算化すれば」途中で中止や廃止という小回りが効かないのが政府であり自民党なのだろうと思える。しかしそれは国民の利益にもならないし、国家予算の喪失にしかならない。どこかの政党が「身を切る改革」と言っているが、実際に政府が「身を切る」必要がありそうだ。この政党もこんな時は「他人事」だから自ら火の粉をかぶる気もなさそうだが。

今、我が国のマイナンバーカードをめぐる有様は「騒乱」と言うに値する。

モノローグ・コロナの日々《始めます!》片山通夫

まさかこのような日々をこの年になって過ごすことになるとは想像もつかなかった。「あやつ」がやってきて、毎日なす術もなく無事にやり過ごすだけの生活を家人はうるさく言うようになった。それを言う家人も面倒でいやだろうが、言われるこちらもうっとうしい。
あやつは「コロナウイルス」と呼ばれている。いわゆる感染症らしい。ところがこの感染症は今のところ「ワクチン」しかない。つまり治療薬が見当たらないのだ。おそらく世界中の製薬会社や研究所が研究しているであろうと思われるのだが。そんな日々にふと思ったことを綴ってみた。ボクも暇なのだ。(掲載は不定期) 続きを読む モノローグ・コロナの日々《始めます!》片山通夫

現代時評《黄河決壊事件とウクライナ戦争》井上脩身

黄河決壊事件

ウクライナのダムが6月6日、何者かによって決壊され、東京23区の面積に匹敵する約6000平方メートルが水没した。ロシア、ウクライナともに、相手側の仕業として非難を応酬。ウクライナ戦争は新たな局面をむかえた。この85年前の同じころ、日中戦争のさなかに黄河が決壊して氾濫、数百万人が犠牲になった。「黄河決壊事件」(写真)と呼ばれるこの軍事事件から導かれるのは「首謀者は住民の信頼を失って最終的に敗れる」である。ダム決壊の実行は軍事的に致命的な愚策にほかならないのである。 続きを読む 現代時評《黄河決壊事件とウクライナ戦争》井上脩身

現代時評《滅びゆくマスコミ》片山通夫

先週「日本はもうだめかもしれない」と書いた。今週はその遠因がマスコミにあるように感じたので本稿を書いた。

忖度と言う言葉を安部政権時代から何度聞いた事だろう。国会での安部元首相の書くのも情けない低俗なヤジに関して、答弁の中で「(私は総理大臣だから)森羅万象を受け持っている」、「国会の長」などの明らかに間違いの言に対してどれほどたしなめ間違いをただし、そして説いたのかを聞いてみたい。当初筆者は大マスコミは安部氏の明らかな間違いを「そのうちまとめて訂正」するのだろうと思ったものだ。ところがほぼ一年前に安部氏が凶弾に倒れ死亡した。続いて国葬。マスコミのボスどもは嬉々としてというのもおかしい表現だが、国葬に参加した。筆者が見る限り国葬に疑問を持った記事は見なかった。

面白いことがあった。安部氏は知ってる限り「自分の権力の及ぶ範囲で行動」していた。たとえば国内にある日本外国特派員協会での記者会見は決して行わなかった。それに反して内閣記者会では、また海外での内閣記者会相手の会見などは積極的に行っていた。だから海外への発信はほとんど内閣記者会というフィルターを通した情報発信でしかなかった。
ここに興味深い記事を見つけたのでリンクを貼っておきたい。いささか長文なのでそちらをお読みいただきたい。

《昔の内閣記者会は今よりはるかにマシだった~官邸権力との暗闘史》
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020101700003.html 

※論座は来月末で掲載をが終了されます。上記記事は7月末までしか読めません。

私たちは一般的に国内の新聞やテレビの報道を通じてのみ、政府の動向を知ることとなっていいる。そのテレビや新聞が政府のスポークスマンである内閣官房長官という権力者に牛耳られて彼の言うがままの記事しか流さなくなった。
PRESIDENNT ONLINE というサイトがある。そこに《安倍政権以前はそうではなかった…記者クラブが忖度に拍車をかけた根本原因》と題した森達也(映画監督)氏と望月衣塑子氏の対談が掲載されている。
https://president.jp/articles/-/51492?page=1
この記事も長いのでじっくりお読みください。

同記事の要約というか、小見出しを3点ほど挙げておく。
1・首相会見での質問は官邸が事前チェック
2・事前通告の拒否や厳しい質問は当ててもらえない
3・出来レースのような記者会見の問題点

これらを見る限り、内閣記者会は《政府の広報》でしかない。
こんな状態を辟易と大の男が従っているマスコミに政府を監視するなんて芸当が出来るはずがない。

日本新聞協会によると、新聞の発行部数はこの5年で1128万部も減少。2022年10月現在、計3084万6631部(前年比218万部減)す。最も多かった1997年(5376万部)に比べ、25年で4割以上も減少。(2023/02/10)

マスコミはこのまま滅んでゆくしかないのかもしれない。

現代時評《日本はもう駄目かもしれない》片山通夫

日本人は昔から他人に、特に外国の人には冷酷だったのでしょうか?
6月9日の東京新聞に《疑念だらけなのに議論打ち切り 入管難民法改正案の残された問題とは 「外国人の命が危機」の声上がる》と。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/255562

結局の所、マイナンバーカード同様、数の力に押しつぶされるのが今の国会の有様。またそれに加えて数の力のメンツ(?)で一旦出した案をひっこめることができない、もしくはメンツが少数者の意見を聞く余裕がない。良識ある個人や弱小政党が如何に声をふり絞って叫んでも、説いても、所詮は負け犬の遠吠え。戦争と比べるわけではないがウクライナが当初数日であの巨大なロシアに押しつぶされることなく善戦しているのはウクライナの人々の弛まぬ抵抗、国を守る意志は無論、EUをはじめとする支援がものを言っている。
つまり大政党はもう少し余裕を持てれば良いのにそれがない。つまるところ自信がないのだ。自信がないから審議を打ち切って無理やり採決しようとする。マイナンバーカードのように以前決めたはずの決まりを平気で無視して押し切ろうとする野蛮さが顕著だ。

強い政党になびいてそのパシリに甘んじているような政党を政党とは呼べないのではないだろうか。そして我々国民は完全とは言わないが、そんな政治に興味も示さなくなった。言ってみれば面白くないのだ。それよりも芸能界のスキャンダル、WBCの行方、ガーシーだのなんだのと自分の身の回りで起こっていることよりも、無責任に興味を持つことのできる、面白おかしい事件の方が見ていて楽なのだ。

これにはマスコミ、特に新聞や地上波のテレビにおおいに責任がある。電波を取り上げられると恐喝まがいの脅しを受けることが考えられるテレビは論外だが、新聞も部数の減少象が著しい。今後ますます衰退してゆくはずだ。人口の減少傾向が続く地方ではもはや宅配は成り立たない。かといって、宅配をやめれば、人々の新聞離れはますます加速する。ニュースはテレビに頼る。テレビは政治に忖度する。かくして良識あるマスコミはなくなる運命にある。

保守的な考えのグループがはじめから計画したわけではないだろうが、完全に彼らの考えに乗せられている。安部政権時代の負の遺産、旧統一教会を始め白日の下にさらしたい事案は山積だが、もう日本は駄目かもしれない。

モノローグ《メジロに罪はない話》片山通夫

友人が送ってくれたという「メジロ」の写真

一昨夜のこと。私の古くからの友人が、「メジロ」を頂いたという話。それを聞いて一瞬「メジロ?それあかん奴や」と思ってしまった。確か捕獲禁止だった。そしてもうずっと昔の話(半世紀以上前)だが、私の父が霞網でウグイスやメジロを捕獲していたことを思い出す。何しろ当時は田舎のことでヤマバトなども大人が空気銃で撃っていた。

それはともかく昔のこととメジロやウグイスは捕獲禁止と言うことを思い出したが、大きな勘違いで友人が知り合いから頂いたのは「魚のメジロ」だという。魚の種類もほとんど知らない私には「メジロ」がどんな魚なのかよくわかっていなかったが、メールには写真がついていた。調べてみたら「メジロ」は関西地方では出世魚であるブリの一つ手前、体長50~60センチ位の種類を言うらしい。つまり、ツバス(10~15cm)→ハマチ(20~40cm)→メジロ(50~60cm)→ブリ(80cm以上)と大きくなるにつれて呼び名が変わる魚だった。ほかにも地方によっては「ボラ」や「マアナゴ」のことを「メジロ」と呼ぶらしい。
ややこしい話だったが、ほっとした話。

現代時評《先住民の尊厳と慰霊》片山通夫

オタスの杜

時折思い出したようにニュースになるのが、我が国の先住民であるアイヌ民族の遺骨の「返還」というニュースだ。まず知っておきたいのが江戸幕府と松前藩が蝦夷(現北海道)という地にすでに住んでいて生活を確立していた先住民であるアイヌの土地を収奪し狩猟を制限しだした。ただ文字を持たないアイヌはたとえば土地の基本台帳などは持たなかった。おそらく「あの山のふもとまで」とか「この川のほとりの集落(コタン)」などと漠然とした表現で完結していた。ところが蝦夷地の松前藩や江戸幕府、そして明治政府は「記録」とか「土地台帳」とか言いだしたのではないかと思う。文字を持たないアイヌは文字を必要とはしなかったが、日本人にはそれは理解できなかった。 続きを読む 現代時評《先住民の尊厳と慰霊》片山通夫

現代時評《LGBTQ法案と旧統一教会の影》片山通夫

「自分の性別を自分がどう認識しているか」は個々の認識であり他人がとやかくいうべき問題ではないという大前提が自民党保守派の意見には無いように思える。だからなのか、この問題を法制化しようとすれば、突然本日からは《私は女、だから女湯に》となりかねないから問題という意見もそのあたりから聞こえてくる。しかし仮に突然だとしても、それが以前からもちろん以後も継続しているならば是認すべきだと思えるのだが。突然その時だけというのは即ち犯罪。

どうも彼ら保守派の考えの背景には「旧統一教会」の影が感じられるのは筆者だけか。たとえば自民党保守派は第一条にあった「差別は許されない」という文言を削除し、第三条の「基本理念」では「不当な差別はあってはならない」に改めた。東京新聞の記事によると《「許されない」という表現を避けたのは、事実上の禁止規定と解釈され、当事者が訴訟を乱発しかねないという意見を踏まえたためだ。保守派への配慮がにじみ、立憲民主党は「差別の意味を狭めるなら大きな問題だ」(岡田克也幹事長)と批判を強めている。》おまけにヒロシマでのサミットに体裁を整えるための道具にすることは決して許されるべきではない。

我々は我々の持つ日本国憲法に定める「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(第19条)」を常に心しなければならない。無論性的マイノリティなど少数派の人々の権利なども制約すべきではない。それを「屁理屈をこねて」骨抜きにしょうとする勢力があることに驚く。こうした自民党保守派の懸念は同時にこの法案を骨抜きにしようという考えが底流にあり、それはそのまま旧統一教会への配慮ではないかと筆者には思える。

ONCE UPON a TIME 外伝・日本で編《カビとの闘い#1》片山通夫

何しろ半世紀以上も写真を撮っていたのだから数だけは膨大なフィルムが残っていた。ただ残念ながら湿気とカビに侵されたフィルムもたくさんあった。いまだかな白状するとコロナ以前には見るのも恐ろしかった。そんな時、新型コロナウイルスが世界を襲った。外出禁止まがいの情報が錯綜する中で「この状態から抜け出せないなら」とフィルムの山に向かうことにした。エチルアルコールはコロナ以前に買ってあった。やわらかい綿にアルコールを浸してフィルムをこすってカビを落とした・・・つもりだった。何かのCMで見たのかもしれないが「頑固な汚れに…」というフレーズが思い浮かんだ。とれないのだ。カビが。そのうち意地になって擦る、こする…。 とれない…。汚れはがんこだった。
なんだかいい気分になってきた…。エチルアルコールで。つまりラリってきた。

急いでベランダのガラス戸を開いて換気した。

フィルムに生えたカビの頑固さよ。