現代時評《子ども文化への視点なき一斉休校》Lapiz編集長 井上脩身

新型コロナウイルスの感染拡大にともなって安倍晋三首相は2月27日、全国の小中高校、特別支援学校に対し3月2日から春休みまでの休校を要請。子どもたちは春休みが終わるまでの1カ月余り、家に閉じこもる状態になっている。「感染収束のためにはやむを得ない」との声がある一方で、共働き夫婦から「仕事を休まねばならず、収入が減る」と悲鳴が上がる。こうした「感染収束」か「生活維持」かの議論のなかで欠けているのは子ども文化への視点である。「今はそれどころでない」と、国中が自粛ムードに包まれているが、子ども文化への支えをなくすと、子どもの心は荒廃する。
安倍首相は一斉休校要請の理由について、「万が一にも学校で集団感染のような事態を起こしてはならない」とし、子どもの健康、安全を第一に考え、感染リスクを低減することが目的であることを強調した。
憲法は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(25条1項)と規定している。安倍首相が「子どもの健康が第一」と本当に考えたとしたら、それ自体は決して誤りではない。しかし、憲法は健康でかつ文化的な生活の保障を求めているのである。文化的な生活をしているのは大人だけではない。子どもも「すべて国民」の一員として、文化的な活動を保障されねばならない。
ところで、子ども文化とは何であろうか。
英和辞書によると、英語の「カルチャー」はラテン語の「cultura」(耕作、精神の耕作)に由来し、「文化」「教養」などのほか「耕作・栽培」の意味もある。こうした点を踏まえて、私は「文化」とは「心を耕すこと」と考える。絵を描いたり音楽を聴くことなどによって、人は心を耕すのである。
ただ、若芽のようにどんなものをも吸収する子どもの場合、大人以上に文化を広くとらえるべきであろう。お絵かきをしたり楽器を奏でたりすることにとどまらず、友だち同士で遊び、けんかをし、かけっこをしたり、あるいは家のお手伝いをし、買いものでお店の人と接することなど、すべてが心を耕すことにつながる。
心を耕す場所は家庭であり、地域社会であり周辺の自然や環境であるが、主たる耕作地が学校であることは論をまたない。友だちとわいわいがやがやとおしゃべりし、校庭を飛び回り、そして異性の友だちにときめいたりすることによって、子どもの心が耕されるのである。
安倍首相は一斉休校の要請に際し、子ども文化を守ることについては一顧だにしなかった。子ども文化への想像力をまったく持ちあわせていないのであろう。
子ども文化への感性が乏しいのは安倍首相だけではない。カネへの換算など、数値化できるものにしか価値を認めない現代社会の病理なのである。たとえば夜空。本来、膨大な数の星が瞬いているが、現代人は電気をこうこうと照らして見えなくしている。星が見えることはカネに換算できないからだ。子どもについても、スポーツや勉強では、記録や成績、順位として数値化される。だが、友だちと遊ぶことは数値化できない。
数値化できないことは価値がないことではない。子どもが泥の水たまりで絵をかいても、展覧会に出品できないだろう。しかし子どもの心には何かが響いているはずだ。こうした精神的価値を「見えざる価値」と言い換えることができる。見えないがゆえに、抑圧・禁止の対象になりやすい。「廊下を走ること禁止」のたぐいだ。束縛と強制によって心の自由が失われると、耕すことはできない。子どもの文化の保障とは、子どもが自由に伸びやかに活動できることを保障することなのである。したがって、子どもを家庭に縛り付ける施策は、余ほどの緊急事態以外にはとってはならない。
一斉休校について、神戸大感染症内科の岩田健太郎教授が「小児の発症、重症化が少ない中で、学校だけが休むのは合理的ではない」(3月4日毎日新聞夕刊)と述べるなど、多くの専門家は「科学的根拠が欠ける」と指摘している。しかし、日常的に子どもと接している学校の教師の場合、ただ批判だけをしているわけにはいかない。現実に首相から休校が要請された以上、子どもたちを少しでも束縛から解放できるよう工夫することが求められる。ところが、臨時休校に入ってから、福岡市の校長が抜き打ちで在宅訪問するとのメールを各家庭に流していたことが明るみに出た(3月8日付毎日新聞)。この校長は、子どもを家庭に束縛することが自分の任務と考えたのであろう。現場教師に子ども文化への感性がなければ子どもは救われない。
今、日本の農村ではあちこちに耕作放棄地が見られ、土地は荒れ果てつつある。子どもの心も同様である。耕さなければ荒れる。心の荒廃がいじめにつながる恐れは否定できない。新型コロナウイルス問題はいずれ終息するだろう。そのころ、いじめ問題が深刻化しているのではないか。杞憂に終わることを願う。